▼タイトル
チャダル 氷の河を往く
▼クレジット
山本高樹 文・写真
【表紙:L001】
-----
【写真:L002】
▼見出し
旅のはじまり
▼本文
インド北部、平均標高3500メートルに達する山岳地帯、ザンスカール地方。そこでは冬になると、外界とを結ぶ峠道がすべて雪で塞がり、周囲から完全に隔絶された世界になる。ところが、一月中旬から三月上旬までの一年でもっとも寒い時期だけ、忽然と一本の道が現れるという。険しい峡谷を流れるザンスカール川があまりの寒さに凍結してしまい、その上を人が歩いて往来できるようになるというのだ。雪と氷に閉ざされた極寒の地で、古の昔から使われてきた幻の道——人々はそれを「チャダル」と呼ぶ。
きっかけは、パドマ・ドルジェとの出会いだった。
彼と知り合ったのは、夏の終わりにラマユルからザンスカールを目指していた旅の途中、ハヌマ・ラのベースキャンプでのことだった。別の少人数グループのガイドをしていた彼が、幕営の準備をしていた僕のところに遊びに来たのだ。ザンスカールのツァザルという村出身の彼は十年のキャリアを持つベテランのガイドで、彫りの深い精悍な顔立ちの中には、黒くて柔らかな瞳が光っていた。気さくで話しやすいパドマと僕はすぐに意気投合して、時間も忘れて話し込んだ。
「……じゃあ、君は冬の間も取材でラダックにいるんだね……チャダルは? 冬のザンスカールには来るの?」
「うーん……挑戦してはみたいけど、どうやったらいいのかよくわからないし……」
「俺が連れていってあげようか?」
「ほんとに?」
「ああ、俺が個人でアレンジするよ。旅行代理店でチャダル・トレックをアレンジしたら、ものすごく高くついちゃうからね」
その時はいったん別れた僕たちは、ロサルが終わった頃に再び連絡を取り合い、チャダルを旅する計画を練るようになった。これまでに数えきれないほど何度もチャダルを旅しているというパドマは、レーで借りている小さなアパートメントに僕を呼んでは、チャイや昼食をふるまってくれながら、チャダルにまつわるいろんなことを僕に教えてくれた。
「……ソリで荷物を運ぶポーターは、あと二人もいれば十分だ。チームは小さければ小さいほどいい。知り合いのザンスカール人に頼んでみるよ。ザンスカール出身のやつでないと、チャダルではいざという時に役に立たないからね……」
「食糧は、何を、どれくらい持ってく?」
「片道分あればいい。戻ってくる時の分はザンスカールで調達できる。米、小麦粉、ダール豆、ジャガイモ……軍用のエッグパウダー、チャイの茶葉にミルクパウダー、それからメギと……調理油はマスタードオイルがいいな。身体があったまる」
「ほかに必要なものは?」
「……君は寝る時にテントを使いたいかい? ケロシンストーブは? できれば、どっちも持っていきたくないんだけど」
「え?! テントも……ストーブも? それで大丈夫なの?」
「川沿いの洞窟に泊まる時はテントはいらないし、ザンスカールの村ではたいてい、俺たちの親類や友達の家に泊まれる。火は薪で起こす。チャダルのどのポイントで薪を手に入れられるか、俺たちは全部知ってる。氷の上を歩く時は、荷物はできるだけ軽い方がいいんだ……」
夜はマイナス三十度まで気温が下がる真冬の山岳地帯を旅するというのに、テントもストーブもいらないというパドマの大胆不敵さに、僕は度肝を抜かれるとともにすっかり感心してしまった。今度の旅は、とてつもないものになる。そんなチリチリとしびれるような予感を僕は感じていた。
【写真:L003】
▼見出し
いきなりの試練
▼本文
この冬最初のグループがチャダルに向けて出発したという知らせを聞いてから数日後、僕たちは週に一便あるチリン行のバスに乗り、車道の終点のグル・ドという地点に移動した。グル・ドは崖の上に古くて由緒あるチョルテン(グル)が残っている場所で、ザンスカール川の岸辺では、道路工事に従事するネパール人たちが石小屋やテントで暮らしていた。その日の夜はザンスカール人が経営する茶店の石小屋に泊めてもらい、これから始まる長旅に備えた。
翌朝、初めて凍結したザンスカール川の上に降り立った時、僕は何とも形容しがたい不思議な感覚にとらわれた。両岸はあちこちに雪が積もった見上げるような岩山や断崖で、その間には深い緑色をした川の水が轟々と音を立てながら流れている。それなのに岸辺には、まるで白い遊歩道のようにきれいな氷の道が川に沿って続いているのだ。奇妙な光景だった。大丈夫だろうか。突然割れたりしないだろうか。すべって転ばないように、おっかなびっくり、歩き出す。
「歩く時は、こう……小さな歩幅で、あまり足を持ち上げないように」とパドマ。前を行く彼が歩いた跡をなるべく踏み外さないように、慎重に足を運ぶ。
パドマと僕の前方には、二人のポーターが荷物を積んだ手製のソリを引いて歩いている。ザンラという村出身のロブザン・トゥンドゥプ(トゥンドゥプ)は、普段は村で大工などをして働く四人の子持ち。パドマ・ドルジェと同じツァザル出身のロブザン・ツェリン(ロブザン)は、つい数カ月前に結婚したばかりの若者だ。二人ともパドマと同様、これまで数えきれないほどチャダルを旅した経験を持っている。
その前を行く二人が、ピューッと口笛を吹いて合図した。追いついてみると、岸辺の氷がわずか幅五十センチほどしかなくなっていて、しかもそのすぐ上には岩がオーバーハングしてせり出している。しゃがんでも無理、腹ばいになって抜けるしかない。それでも右肩はそっくり川の上に出ているような状態で、うかつにもがけばそのまま川の中にずり落ちてしまいそうだ。僕は岩の下に這い込むと、腹ばいのまま両手を前に伸ばして、先に抜けた二人に引きずり出してもらった。
後から這い出てきたパドマは、いきなりの試練に肝を冷やした僕の顔を見ると、こともなげに笑って、
「これが、チャダルだよ」と言った。
先に進むにつれ、両岸にそびえる岩山はますます高く、鋭く、険しくなっていった。日射しが雪や氷に反射して、目が痛い。寒さはそれほど感じない。気を張りつめて歩き続けているから、身体が暖まっているのだろう。
日当りのいいゆるやかな斜面にさしかかったところで、パドマが「よし、昼飯にしよう」と言った。三人は荷物を降ろしたかと思うと、ほんの十分ほどで薪を拾い集め、石ころでかまどを作って火を起こし、チャイを湧かし、メギを作ってくれた。ほれぼれするほどの手際のよさだ。マグカップからすすりこんだメギの熱さが、身体を芯から暖めてくれる。疲れた足の筋肉に力が甦ってきた。トゥンドゥプとロブザンは、うまそうにビリ(インドの安タバコ)を吸っている。
人心地ついたところで、再び出発。少しずつ、氷の上を歩くのにも慣れてきた。上に二、三センチほど雪が積もっていれば、ほとんどすべることがないこともわかった。川の全面が凍結して雪が積もっているような場所だと、まるで普通に平らな雪原を歩いているかのような錯覚に陥る。でも時折、コココッ、ギーッ、と建てつけの悪いドアみたいな音を立てて足元の氷が軋むと、ああ、ここは川の上で、足の下数十センチのところでは冷たい水が渦巻いて流れているのだ、ということを思い出す。
時々足を止め、背中の防水ザックからカメラを取り出して写真を撮る。今回、デジタル一眼レフでチャダルの撮影をするにあたって、一番悩んだのはバッテリーの保管方法だった。これだけ気温が低い場所だと、普通に持ち歩いていたのではバッテリーの電圧が低下してゼロになってしまう。僕は考えた末、服の内側にカメラマンベストを着込み、そのポケットに八本の予備バッテリーを詰め込んで、どんな時でも常に肌身離さず、自分の体温で保温することにした。撮影する時は懐からバッテリーを取り出してカメラに装填し、撮り終えたらまた取り出して懐にしまう。面倒だが、三週間に及ぶチャダルの旅でバッテリーを保たせるにはこうするしかない。
午後三時を過ぎた頃、川岸から少し上がったところにある小さな洞窟に着いた。洞窟の入口には風よけの石垣が積まれていて、古くから使われていることがわかる。煤けた天井は低く、広さもやっと数人が横になれる程度だ。洞窟に残っていた少しばかりの薪でチャイを湧かした後、三人はどこかに出かけていって、夕食の煮炊きと暖を取るのに必要なだけの薪を集めて戻ってきた。太陽はとっくの昔に岩山の向こうに姿を消し、大気はギューッと締めつけるように冷え込んできている。太めの薪を投じて火を大きくし、ラバーブーツを脱いで、雪や汗で湿った靴下を火にかざす。こうしてしっかり乾かしておかないと、夜の間に凍ってしまうのだ。靴下から、おもしろいくらいに湯気が立ち上る。
この日の夕食は、料理上手なトゥンドゥプが中心になってトゥクパを作ってくれた。暗い洞窟の中で、温かいトゥクパをスプーンで口に運びながら、パチパチとはぜる火を眺めているのはとても楽しい。ほかの三人はもっぱらラダック語で、「グル・ドにいたネパール人の女の子はかわいかった」とか「どこそこの村の誰それのヨメはどーたらこーたら」とか、ずっと女の話ばかりしている。
「タカ、君がチャンスパで泊まってる家に、若い女の子がいるだろ?」とパドマ。
「いるけど……なんで知ってるの?」
「カワイイのか?」
「カワイイ? うん、まあ確かに」
「だったらヨメにしちまえよ!」とトゥンドゥプ。
「いや、ムコになってラダックに住んじまえばいいじゃん!」とロブザン。
こうして僕は、その後「チャンスペ マクパ」(チャンスパのムコ養子)というあだ名で呼ばれることになったのだった。
【写真:L004】
▼見出し
「怖がるな。俺たちを信じろ」
▼本文
チャダルの氷は、時と場所によってさまざまな表情を見せる。
たとえば、一度張った氷の上に川の水がせり上がってまた凍りかけているような場所では、上層の氷はシャブシャブのシャーベット状となり、膝下まである僕の防寒ラバーブーツでもギリギリ歩けるかどうかという時もある。さらに水が深いところでは、靴やズボンを脱いで越えなければならないこともあるという。
そうかと思えば、上に雪も何もない、まるでガラスのようにツルツルで透明な氷が一面に張っている場所もある。こういう氷は恐ろしくすべりやすいのだが、冬山登山で靴に装着して使うアイゼンのような道具は、氷が割れる可能性があるので使えない。うっかり下手な転び方をすれば、骨折だってしかねない。中腰になって重心を落とし、ゆっくり、そろそろと進む。足元を見ると、泡立った気泡が氷の中に閉じ込められたまま凍りついているのが見える。
だが一番大変なのは、氷そのものが張っていない場所だ。そうなると崖をよじ登って迂回するしかないのだが、ただでさえ険しくそそり立つ崖のあちこちには雪がこびりついていて、うっかり足を乗せるとズルッとすべる。いったいどこに足場があるのか、僕の目には見当もつかない。
「足をそのくぼみに置いて、ここにある岩をつかんで……そう! 次は、そっちの手であのでっぱりを……」
パドマが鋭い声で足場を指示する。指先と足先に全神経を集中しながら、一歩々々、よじ登っていく。僕がしがみついている垂直に切り立った崖には、幅三十センチほどの足場と、ところどころわずかにでっぱった岩の手がかりしかない。ふと下を見ると、十数メートル下には鋭く尖った岩がゴロゴロと転がっている。落ちたら、たぶん死ぬ。でも今は、余計なことを考えている暇はない。
「チャダルで一番してはいけないのは、怖がることなんだ」とパドマは言う。「もし君が怖がってすくんでしまったら、俺たちには何もできない。だから、怖がるな。俺たちを信じろ。そうすれば、絶対に何とかしてやるから」
三日目は、途中から雪になった。青白い雪が、山に、岩に、氷に降りしきり、視界は白くかすんで、ダウンジャケットのフードを目深にかぶっていなければ目も開けていられない。うっすらと新雪が積もった氷に足をすべらせて、パドマでさえ何度かすってんと転んでいた。
こうして雪が降り続いている間は、途中で火を起こして昼食を作るのは難しい。僕たちは三十分おきに五分ほど休憩して、そのたびに小さな固いパンやビスケットを少しずつ口にしながら、この日泊まる予定のニラクという村に急いだ。
途中、僕が持っていたチョコレートをみなに配っていると、トゥンドゥプが手にしたチョコレートをまじまじと見ながら言った。
「……これを今食っちまったら、数時間後には俺たち死んでるかもな……」
「おいおい!」
こんな苛酷な状況でも、バカなことばかり言って笑っている三人。ザンスカール人はたくましいというか、呑気というか。
雪が降る中を五時間ほど歩き続け、ユルチュンという村への分岐点にさしかかると、今にも倒れそうなほど大きく傾いだ一本のシュクパの木があった。古いタルチョが枝に絡みついている。トゥンドゥプはその木に近づくと、小さな枝と赤いタルチョの切れ端を取ってきて、「キキソソラギャロー!」と唱えながら、それを僕のカメラザックに結わえつけてくれた。
【写真:L005】
▼見出し
ニラクの茶店で
▼本文
雪は丸三日降り続いた。僕たち四人は、ニラクの村のふもとでチャダルの旅人を相手に営業している茶店の石小屋に泊めてもらって、天候の回復を待つことにした。この先には、チャダルで一番危険なポイントが待ち構えている。無理はできない。暗い石小屋の中で、僕たちはストーブの煙突を通している屋根の穴の隙間からちらちらこぼれてくる雪を眺めながら、「雪が止んだ」「いや、また降りはじめた」と一喜一憂をくりかえした。足止めを食ったのが洞窟ではなくて村だったのは、不幸中の幸いだった。
茶店では、ソナム・ギャルポという少年が店番をしていた。黒くてきらきらした目の男の子で、普段は故郷のニラクを離れてチョグラムサルにある学校で勉強しているのだという。初めは朴訥で純真な男の子なのかと思っていたのだが、そのうち仲良くなってくると、
「ねーねー、にーちゃん、彼女いる? 彼女の夢とか見たりする? 彼女の夢見て×××××? ねーねーねー?」
とか言いはじめたので、頭をひっつかんでぴしぴし、ぐりぐりしてやった。どこの国でも、十二歳の男の子はみんなエロガキだ。
「にーちゃんは、これからザンスカールまで行くんだよね?」とソナム。
「うん、そうだよ」と僕。
「帰りは、またチャダルを引き返してくるんでしょ? いつ戻ってくるの?」
「そだな、十日後くらいかな」
「じゃ、にーちゃんが戻ってくる時は、僕はもうここにいないや」
「どうして?」
「一週間後に、チョグラムサルの学校に戻るんだ」
「戻るって……チャダルで?」
「うん」
僕からしてみればこれ以上ないほど苛酷なチャダルの旅路も、ザンスカールの人々にとっては、十二歳の少年すら平気で行き来する生活の道なのだった。
【写真:L006】
▼見出し
最大の難所、オマ
▼本文
ニラクから一時間ほど先に進んだところに、人々が「オマ」と呼んでいる場所がある。両岸は取りつくしまもないほど垂直の岩壁で、水深は深く、ある程度氷が張らなければ通り抜けるのは不可能だ。その氷も、川の流れが速いために状態が安定せず、少し凍ってはまた割れてをくりかえす。チャダルの道程の中でも、もっとも危険で難しいポイントだ。
この日僕たちは、一日遅れでニラクにやってきて雪の止むのを待っていた別のグループと一緒にオマを越えることになった。彼らはアメリカ人のライターとインド人のフォトグラファーの一行で、ガイド、コック、アシスタント、ポーターたちを含めると十人を越える大所帯だ。でも、この難所を越えるためにザイルを張ったり、岩にこびりついた雪を削って足場を作ったりしていたのは、もっぱらうちの三人だった。
オマでも特に氷が張りにくい長さ数十メートルの箇所には、川面から数メートル上の左岸の岩壁に、鉄筋の足場が等間隔に打ち込まれている。今、足場の下の川面にはまったく氷がない。その手前、わずかに幅二、三十センチほど氷が張っているところまで僕は移動して、指示を待つ。
「よし、タカ、来い!」
パドマが足場の上から垂らしてくれたザイルを頼りに、僕は垂直の岩壁をよじ登りはじめた。ラバーブーツの底がすべって、なかなかうまく登れない。息を切らしながら、ようやく鉄筋の足場のある場所まで辿り着いた時、背後で「あーっ……!」という声が聞こえた。
……落ちた?!
ふりかえると、僕の次に崖を登るのを待っていたはずのアメリカ人の男が、自分でも信じられないといった表情で、川の中でばたばたともがいている。首元まで水に浸かっているのに、足が川底に届いている様子はない。流れは速い。あっちのグループのポーターたちはおろおろしながら、手に持っていたタオルにつかまらせようと差し出したりしている。そんなんじゃダメだ、早く助けないと……。
その時、僕のすぐ横にいたロブザンが、自分も落っこちてしまいそうなほどのものすごい勢いでザイルを伝って下にすべり降りた。わずかな氷の上から身を乗り出すと、手を川の中に突っ込んでアメリカ人の身体をつかみ、岸に引き寄せ、引きずり上げる。どうやら大丈夫そうだ。よかった、間に合った……。
ほっとしている暇はない。僕は岩壁に背を向けてぴったり張りついたまま、鉄筋の足場をカニ歩きで伝いはじめた。途中、鉄筋がまばらになって足が届かないところで、ズルッとすべりそうになる。再び上に戻ってきたロブザンが脇を支えてくれて、どうにか切り抜けることができた。人間、極限状態も度を越すと、パニックを起こすのも忘れるらしい。
オマを渡り終えた後、あっちのグループは濡れねずみになってブルブル震えているアメリカ人の介抱で大わらわだった。「身体をずっと小刻みに動かし続けて! 止めちゃだめだ!」と、パドマが彼に声をかける。アメリカ人が地面に脱ぎ捨てた服がほんの二、三分でカチカチに凍りついてしまったのを見ると、自分は落ちなくてラッキーだったとつくづく思った。
「……あいつは誰だ? あんな身軽で勇敢なやつは見たことがない!」
大きな岩陰での昼食の時、ロブザンは、あっちのグループで一躍時の人となっていた。当の本人は、アメリカ人がお礼にくれた五十ドル紙幣を手の中でもて遊びながら、照れくさそうに笑みを浮かべている。
「チュッポ(お金持)だなあ、ロブザン。奥さんに何か買ってあげたら?」と僕。
「あっちは人数多いけど、俺たちのチームの方が強いな」とパドマ。
「ポーターも最近は、荷物運ぶだけじゃすまないんだな」とトゥンドゥプ。
それからしばらくは、崖を登ったりザイルを伝ったりする必要もなく、凍った川の上を歩いて進むことができた。この三日の間に積もった雪は、深く、柔らかく、ねっとりとブーツにからみつき、寒さは刻々と体力を奪っていく。足は次第に重くなり、身体は力が入らなくなる。でも、今は歩き続けるしかない。もし、歩けなくなったら……。
ふいに、パドマが小さく叫んだ。
「……アイベックスだ!」
彼の視線の先を追うと、川の対岸の急斜面に、十頭ほどの野生のアイベックスの群れが見えた。雪からのぞいたわずかな草を食みながら、時折巨大な二本の角をもたげるその姿は、凛として美しく、この厳しい世界で生き抜く者の気高さが感じられた。
【写真:L007】
▼見出し
柳の木の杖
▼本文
チャダルを旅している間、パドマはいつも一本の杖を手にしていた。直径五センチほどの、すべすべした柳の木の杖だ。
「目の前の氷が渡れるかどうかわからない時は、この杖で氷を叩くんだ」と彼は、足元の氷を杖でコンコンと叩いた。「二回叩けば、その音でだいたいわかる。わからなければ、もう一回叩く。そうすれば絶対にわかる」
「音だけで?」
「そう」
「欧米人がよく使ってるトレッキングステッキとかじゃだめなの?」
「あれじゃ音がわからない。木の杖でなきゃだめなんだ」
割れては凍り、凍っては割れ、刻々と変化するチャダルに対して、パドマの読みは常に的確だった。左岸と右岸のどちらを行けばいいのか、氷のどこが脆くてどこが固いのか、氷が十分でないところでは、どこをどう迂回するのか……。自信がある時の彼は、凍った川のど真ん中でも平気でスタスタ横切っていく。その後をずっと歩いてついていくうちに、僕は彼の判断に絶対の信頼を置くようになっていった。
一度だけ、パドマが氷を読み違えたことがある。それは、ところどころに雪が残る、川のほぼ全面が凍った場所にさしかかった時のことだった。そのあたりの氷はどこか頼りなげで、足を乗せると、ミシッ、パリン、と、薄っぺらいガラスのような音をたてて表面にひびが入ってしまう状態だった。
「タカ、あそこから左側の岸に上がろう……」
パドマは進路を変え、氷の上にうっすら雪が積もっている場所に踏み出した。すると突然、ズボッ! という音とともに彼の身体が沈み込んだ。
「パドマ! ……うわっ!」
彼の方に一歩近づいたとたん、今度は僕の右足が、ズボッ! と太腿の付け根までめり込んでしまった。引き抜こうとしてみるが、まるでセメントの型にでもはまったみたいに、びくともしない。
「タカ、動けるか?」
「だめだ。中でブーツが脱げちゃいそうだよ。まずいな」
「ちょっと待ってろ、こっちは何とかなりそうだ……」
そう言いながら彼は雪の中から抜け出すと、這いつくばったまま、僕のめり込んだ右足の周りにある雪を手で掘りはじめた。どうやら、僕たちのいる場所には直径二メートルほどの氷の穴が開いていて、そこに雪が詰まって中途半端に固まっていたらしい。それで、パッと見は氷の上に雪が積もっているように見えたわけだ。幸い、穴の中には水はなく、やっとのことで引き抜いた右足は、ブーツもズボンもたいして濡れていなかった。
「ここは立ち上がって歩いちゃまずいな。手も使って体重を分散させないと……」
二人で四つん這いになって安全な場所を目指しながら、僕は思った。パドマのような百戦錬磨の男でさえ、氷を読み切れないことがある。チャダルでは、いつ何が起こってもおかしくない。
【写真:L008】
▼見出し
バター茶の味
▼本文
出発して七日目の夕方、僕たちはハヌミルという小さな村に着いた。ここから先はザンスカール川の岸辺が開けるので、地面の上を歩いていくことができる。これで、チャダルの道程で一番難しい部分は切り抜けることができた。一週間後には、また同じ道程を戻らなければならないのだが。
一面深い雪に埋もれたこの小さな村で、僕たちは一軒の農家に泊めてもらうことになった。寒さと疲労で今すぐにでもぶっ倒れて眠れそうなくらいクタクタだったが、暖かいストーブが燃える台所ですするバター茶は、「うまい」を通り越して「ありがたい」と思えるような味がした。
ほかの三人も、旅の前半の難所を切り抜けた安堵感からか、いつもに輪をかけて陽気だ。「トゥンドゥプを日本に連れて行ったら、いくらくらいで売り飛ばせるか?」という、すこぶるバカな議論で盛り上がっている。
「どうだよ、タカ? こいつ、日本だといくらで売れる?」
「トゥンドゥプを? ……買うの? 誰が?」
「こら!」
そこら中を走り回る孫たちをあやしながら僕たちのやりとりを聞いていたこの家の老婆が、僕の顔を見て、二言三言、何か言った。
「パドマ、あの人、何て言ったの? よく聞こえなかった」
「『あんたはものすごくいい笑顔で笑うわねえ』だってさ」
それを聞いた僕は、耳たぶまでカーッとなったのが自分でもわかるほど、真っ赤になってしまった。生まれてこのかた、笑顔をほめられたことなんて、一度もなかったから。
【写真:L009】
▼見出し
ソデチャンの日
▼本文
「タカ、今朝はいい天気だよ」
寝袋から起き上がったばかりの僕にパドマが言った。
「今日は一日、この村で写真を撮るんだろ? ソデチャン(ツイてる人)だな、君は」
ハヌミルから深い雪道を歩き続けること三日、僕たちは旅の折り返し地点であるカルシャの村にやってきて、パドマの親戚の家に泊めてもらっていた。今日はひさびさの休養日。朝食もそこそこに身支度をして、カメラを持って外に出る。空は一片の雲もなく澄み切っていて、周囲を覆う雪は降り注ぐ日射しを跳ね返してダイヤモンドのように輝いている。これまではどちらかというとさえない天気の日が続いていたが、今朝は目に映るすべてのものが、昨日までとはまるで違って見える。
カルシャ自体はごくこぢんまりとした村なのだが、村の背後にそびえる岩山には、ザンスカール最大の僧院、カルシャ・ゴンパがある。急斜面にひしめく僧房の間をぬって上に登ると、ザンスカール川とツァラプ川が合流する平野が一望できる。東には去年の夏にも訪れたストンデの村とストンデ・ゴンパ、南にはパドゥムの街や、由緒あるピピティンのグルが見える。見渡すかぎりの白銀の世界。鋭い刀の切っ先のような山々が、藍色の空にくっきりと食い込んでいる。冬のザンスカールの真の美しさを、僕はまざまざと見せつけられていた。
ゴンパの下手にある古いお堂では、人々が「マネ」と呼ぶ冬の法要が行われていた。中をのぞいてみると、ザンスカールの人々がよく使う目出し帽にもなる茶色のニット帽をかぶったおばちゃんたちが、ストーブを囲んで数珠を手繰りながら、にぎやかに世間話に興じていた。畑仕事もなくて暇を持てあます冬、みんなのんびりしたものだ。
村の中をぶらぶら歩く。足元の雪はところどころ踏み固められた部分が凍りつき、よそ見していると転びそうになる。シャベルを手に屋根に登って雪かきをしている人。与えられた貯えの干し草を神妙な顔でもぐもぐ食べているゾやヤギ。まだ凍っていない共同水道では、女の子が一人、手を真っ赤にしながら洗濯をしている。「冷たい?」と聞くと、「冷たいわよー!」と怒ったように返された。当たり前のこと聞いちゃってごめん。
三、四軒の家が立ち並んでいる一角で、もこもこのゴンチェを着込んだ十人くらいの子供たちが遊んでいた。子供たちは僕の姿を見ると、
「……チゲルパ(外人)だ、チゲルパだ」とひそひそ相談しはじめたので、
「ほーい、チゲルパが来たよー」とラダック語で声をかけてやると、みんな「え?! なんで?」と目をぱちくりさせていた。
「トゥグ ギャラ(いい子たち)、ナクシャ(写真)撮ってあげようか?」
「ナクシャ?! ナクシャだって!」
子供たちはいっせいに駆け寄ってくると、ぴったり肩を寄せ合って、これ以上ないほどとびきりの笑顔を見せてくれた。この笑顔に出会えただけでも、氷の川を旅してきたかいがあった。そう思わずにいられなかった。
【写真:L010】
▼見出し
パドマの故郷
▼本文
翌朝、カルシャを発った僕たちは、パドマとロブザンの故郷、ツァザルに向かった。この日の天候は再び悪化し、空も雪も、何もかもが鈍い灰色の世界に閉ざされてしまった。ふくらはぎの中程まで埋もれる雪道を、僕たちは黙々と歩いた。
ツァザルの村は、ザンスカール川が小さく湾曲している部分の崖の上にあり、白壁にユンドゥン(卍の模様)が描かれた古くて立派な家が立ち並んでいた。パドマの家に着くと、彼の両親と弟と妹が出迎えてくれて、すぐに熱いチャイを淹れてくれた。ストーブが燃える台所は眼鏡が曇るほど暖かく、古いラジオからはとぎれとぎれにラダック語のローカルニュースが流れていた。
パドマには六人の兄弟がいて、そのうち四人は仕事や学校のためにレーで暮らしている。彼の奥さんもふだんはこの家にいるのだが、今は親類の僧侶が修行している南インドの僧院を訪ねているのだという。パドマも仕事柄留守がちなので、ひさびさの再会に家族たちもうれしそうだ。
「あんた、これからまたパドマと一緒にチャダルに行くのかい? あんな寒いところに……。冬の間、ずっとここにいればいいのに。ここでおいしいごはんを食べて、夏になってからレーに戻ればいいのに」
お母さんがそう言うと、お父さんも、
「そうそう、夏になるまで待って、車でカルギルを回って戻ればいいんだよ……そうだ、あんた、この村に家を建てたらどうだい? 土地はほら、あそこらへんをあげるからさ」と笑う。パドマの冗談好きは、どうやら遺伝によるものらしい。いや、それとも本気なのか。
夜は、みんなが羊肉のモモを作ってくれた。薄暗い台所で、お母さんが静かに念仏を唱えるのを聞きながら、モモが蒸し上がるのを待つ。僕は幸せだ、と思った。
【写真:L011】
▼見出し
再びチャダルへ
▼本文
晴れた日の朝、ザンスカール川の川面からは雲のように濃い霧がもうもうと立ち上る。吐息は一瞬にして、まつげや、眼鏡のレンズや、ひげや、ダウンジャケットの襟元で白く凍りつく。川岸に生えている灌木も、まるで彫刻作品のような樹氷と化している。ハヌミルを過ぎ、再び氷の川を往く旅が始まった。
「晴れの日が続いた方が、チャダルはコンディションがよくなる」とパドマは教えてくれた。「晴れると川の水位が下がって、氷も雪も締まって固くなる。でも曇りの日が続くと、川の水位が上がって氷の上にまで来てしまう。そうなるとチャダルは厄介なんだ」
彼の言うとおり、晴れの日が続いた復路のチャダルは、時折腹ばいになったり崖をよじ登ったりはしたものの、往路に比べればずっと歩きやすかった。深い雪に覆われた陸の上を歩き続けた後だと、ほどほどに雪が積もったチャダルの氷の上の方がフラットで楽に歩けるということも実感した。ただ、晴れて日が射してくると、雪と氷の照り返しがすさまじい。まさかこの季節に、顔に日焼け止めを塗らなければならなくなるとは思わなかった。
見上げていると首が痛くなるほど高くそびえる岩山や断崖の狭間——普段は人間が踏み込むことすらできない場所で、凍てついた川の上をスタスタ歩いていると、うっかり立ち入り禁止区域に入ってしまったような、何とも言えない妙な気分になる。目に見えるものすべてがあまりにも現実離れしていて、だんだん感覚が麻痺してくる。
「昔のザンスカール人はすごいと思うよ。昔は、防水素材のジャケットも、ラバーブーツも、寝袋もなかった。マッチすらなかったんじゃないかな。それでこのチャダルを旅していたんだから……。本当にすごいと思う」とパドマ。
その偉大な先人たちの子孫である彼ら三人はどうかというと、あいかわらずバカなことばかり言い合っている。
たとえばある日、写真を撮っていた僕がパドマと少し遅れて歩いていた時。
「パドマ、今日はあの二人、ペースが速いね! 全然追いつけないや」
「あー、あいつら、チンチンでかいからな!」
その後、二人の姿が見えると彼は大きな声で、
「おーい! そこのチンチンでけえの二人! 昼飯にしようぜ!」といった具合。
呼ばれた方も呼ばれた方だ。その日の夕方、幕営用の薪をたっぷりと集めてきた二人に、
「お疲れさま。すごいな、よくこんなにたくさん集められるね」と僕が声をかけると、
「おう、俺たちゃチンチンでけえからな!」と返してくる始末。僕らの間での二人の呼び名が、その後どうなったかは言うまでもない。
【写真:L012】
▼見出し
一人の男が死んだ
▼本文
ツァザルを発ってから三日目の午後、僕たちは再び難所のオマにさしかかった。その少し手前に、斜面にこびりついた雪を幅十五センチほど削って作った足場を伝わなければならない場所があったものの、あのアメリカ人が川に落っこちた場所には、幸運にも幅五、六十センチほどの氷が張っていて、今度はザイルを使うことなく歩いて通り抜けることができた。とはいえ、その部分の氷は破片が寄り集まってまた凍ったかのようにメチャクチャにささくれ立っていて、またすぐに崩れてしまいそうな状態だったのだが。危険な、でもその凄みゆえに美しい場所——。
オマを抜けてしばらく歩いたところで、パドマがふいに足を止めた。
「去年の冬、一人の男がここで死んだ」
「ここで? ……外国人?」
「いや、ザンスカール人だ。足をすべらせて、川に落ちたらしい。その時一緒だったのは女ばかりで、誰も彼を助けることができなかった。男の身体はまだ見つかっていないんだ。川に流され、氷の下にもぐってしまって、どこに行ったかわからなくなった」
目の前の川面に張った氷には、あちこちに大きな暗い穴が開いている。その下を、水がゴボゴボと激しく泡立ちながら流れているのが見える。
「それまでチャダルでは、長い間、誰も死んだりしていなかったんだ」と、パドマはくやしそうに唇を噛んで、言葉を続けた。「せめて、誰か一人でもザイルを持っていたら、何とかなったかもしれないのに……」
【写真:L013】
▼見出し
「俺たち、兄弟みてえだな!」
▼本文
ニラクまで戻ってきた日の夜、僕たちは以前雪が止むまで泊めてもらっていた茶店の石小屋でまた一晩厄介になることにした。エロガキのソナムはもう学校に戻るために出発した後で、代わりに一人の陽気なじいさんが店番をしていた。僕たちはじいさんと一緒にアラク(強い蒸留酒のどぶろく)を飲み、ロブザンがどこからか手に入れてきた羊肉でこしらえたモモを頬張りながら、いつにもましてバカな話で盛り上がった。
「タカ! ……お前、来年もチャダルに来い!」とトゥンドゥプ。「もっちろん来るよな?! 今度は日本人の女の子も二、三人連れてこいよ!」
「日本の女の子と……日本のタバコをどっさり、だっけ? そしたらタダで荷物運んでくれるんだろ?」と僕。
「そうそう、あと、女の子の数だけテントも用意しなきゃな!」とロブザン。
「わしも、わしも!」と茶店のじいさんが割り込んでくる。「わしの相手をしてくれそうな日本の女の人を連れてきてくれい! そしたら、あんたにヤクを一頭タダでやるぞ!」
心優しくて勇敢で、くだらない冗談とエロ話が大好きな、本物のチャダルの男たち。
「……なんかよー、俺たち、兄弟みてえだな!」と、アラクを飲み干したトゥンドゥプが笑う。こいつらと一緒に旅することができて、本当によかった。
【写真:L014】
▼見出し
キャンの尻尾
▼本文
油断ならない道程は、なおも続いた。氷の上に水が上がってズブズブに緩んでいる場所。氷に足を乗せたとたん、ピシーッ! と派手な音を立ててひび割れる場所。垂直どころかオーバーハングしている崖にしがみついて通り抜けなければならない場所や、雪がこびりついてすべりやすい巨大な岩をいくつもよじ登らなければならない場所もあった。ある時は、膝から下がずぶぬれになった男たちの一行が僕たちのいた洞窟にやってきて、カチカチに凍りついた靴やズボンを焚き火で乾かしていったこともあった。またある時は、ザンスカール方面に向かっていた男が氷の上で派手に転倒し、片腕を動かすこともできないほど激しく痛めて、レーに引き返していったこともあった。
それでも少しずつ、僕たちは旅の終わりに近づいていた。
出発してから十九日目の朝、僕たちは終点のグル・ドまであと一時間ほどというところまでやってきていた。大きな岩の横で足を止めてちょっと休憩していると、頭上はるか上を、一機の飛行機がジェットエンジンの轟音を響かせながら飛んでいるのが見えた。
「妙なもんだな。ああして飛行機で旅してるやつもいれば、俺たちみたいに、氷の川を旅してるやつもいる」
バックパックを背負ったまま岩にもたれながら、パドマは呟き、んー、と両手を上に伸ばした。
「タカ! 俺たちは、人生を生きてるよなあ!」
銀色の飛行機の機体は、またたく間に青空に溶けて見えなくなった。
「ミ ミツェ リンモ、キャン ガマ リンモ」と彼が言った。
「『人生は……』? どういう意味?」
「『人生は長い。キャン(チベットの野生のロバ)の尻尾も長い』という意味さ」
▼著作権クレジット
Copyright © Takaki Yamamoto, All Rights Reserved.