94度のきみとぼく
another short story (1-10)
ISBM 978-1-4523-5046-2
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94度のきみとぼく
another short story (1-10)
1. BD Dream
夢を見た。なつかしかった。
心当たりのある方には申し訳ないが、見たんだから仕方ない。
そして、今日の日に残したくなったんだから、ごめんなさい。
そのひとは元気にすごしていると思っていた。もうずっと会っていない。別れてからずっと会っていない。
ぼくはいつものようにカメラを片手に歩いている。足の向くまま気の向くままにパシャパシャ写真を撮りながら歩いている。
気がつくと、とても格式のあるホテルに着いていた。天井が見果てるほど高く、壁は練乳色の大理石のよう。
ボーイと言うよりも執事と言った方が正しい落ち着きのあるホテルマンから部屋に通された。
ぼくが今日ここに来ることはわかっていたと、ホテルマンはうれしそうに満足そうに微笑んだ。そしてその部屋のベッドを手で指し示した。
ベッドにはたくさんの封筒が置かれていた。すべてにそれなりの宛名が書かれていた。
「わたしを大切に育ててくれた両親へ」「親友のあなたに」「元彼に」そんな宛名が書かれた封筒だった。
ホテルマンに振り返ると、彼は静かに頷き部屋を後にした。
「元彼に」これなんかぼく宛だな。でもしっくりこない。ベッドの上の封筒の宛名をもう一度ひとつひとつながめてみた。するとひとつの封筒、ぼくの名前がフルネームで書かれている封筒が下の方から半分だけ見えていた。
ーお元気ですか。
ーあなたがこの封筒を手にしているということは、
ーわたしはもう生きていないということです。
えっ。
残り少ない時間を承知で明日このホテルで結婚式を挙げること。今まで結婚なんて考えずにひたすら仕事をしてきたこと、そんな年齢も余命も含めて、こんなわたしのことがいいと言ってプロポーズしてくれた男性がいたこと。その男性と明日一緒になること。が書かれていた。
そしてそれを何よりもあなたに伝えたかった、わたしは幸せになりましたと伝えたかった、だからあなたも幸せになってください、と。
知らないはずのきみの働く姿、笑い顔、辛そうな顔、そしてその結婚式で優しく微笑むきみの顔、別れてからのいろんなきみの顔が部屋中にあふれていた。
ーきっと今日はあなたの誕生日でしょ。
ーいつの日かわからないけれど、あなたはここに来ると思っていました。
ーそしてその日があなたの誕生日だったらいいな、と。
ーそうだよね。誕生日、おめでとう。
ーもう会うこともないけれど、わたしは大丈夫。ここに来てくれてありがとう。
ここで目が覚めた。
夢とは都合のいいものだ。一番いいところで目が覚める。
続きを見て、別れたあなたにありがとうを伝えようと試みたが、今朝はやけに目覚めが良く二度寝ができない。
なので、今もきっと元気なあなたにここで伝えます。
「ありがとう。ぼくも元気にやっています」
2. 雑貨屋のテーブル
雑貨屋の奥には休憩スペースがあった。輸入物のステーショナリーが置いてある棚に沿って12歩進むと、右手の奥に入口からでは目につかないその場所にたどり着く。12歩、それは涼子の歩数であり、決して祐二の歩数ではなかった。
会社のデスク用に使い勝手のよさそうな小物を探していた涼子は、無意識のうちにその歩数を刻んでいた。休息スペースのテーブルにはガラス越しの冬の陽射し、その暖かそうな陽射しはテーブルに置かれている小さなグリーンを優しく包んでいた。
涼子にはそのグリーンが光を存分に吸収しようと目一杯6枚の葉を広げているように見える。
12歩を数えてみたのは1年前の涼子。祐二は涼子にせがまれて歩数を確認してみたが、笑いながら、そんなにかからないよ、と涼子とならんでそのテーブルについた。12歩の会話でその日は終始し、互いに笑いあえる笑顔があった。そのときもテープルにはグリーンが置いてあった気もする、今の涼子はそれさえ鮮明に思い出すことができない。
数カ月前、このテーブルから店内の雑貨を背景に涼子は祐二に写真を撮ってもらった。
「ねぇ、写真撮ってもいいかな」と祐二。
「撮りたいんでしょ」
「まぁね」
祐二が持ち歩くカメラ、祐二が向けるレンズ、そして控えめなシャッター音。涼子はどれも好きだった。それにもまして好きだったのは、そのときの祐二のはにかんだ顔、どれだけ撮らせてあげてもはにかんで聞いてくる。
「ねぇ撮っていい」
サービスで一杯だけ飲めるこの雑貨屋のコーヒー。それほど客が入っているわけでもなく、このテーブルに腰掛けている客の姿も見たことがない。涼子がこの店に来るときは必ず空いているテーブル、ほっと一息つける、通りの雑音も届かない、時間が独立している。涼子の好きな場所だった。独特の苦味のあるコーヒーも好きだった、サービスは一杯だけ、お替わりはなし、料金無料、セルフサービス、でも美味しかった。
この場所のことに思いを巡らせると必ず祐二の笑顔が重なる。祐二ははじめて入ったこの雑貨屋でフォトフレームを買ってくれた。
「どうするの」
「どうにでも」
「じゃあ祐二が撮った写真を飾るね」
「涼子の顔ばかりだよ、おすまし顔、真剣な顔」
「わたしは街の風景がいいな」
微笑ながらうなずく祐二の顔が陽射しの中に浮かんだ。
そんな祐二の顔を思い出していると、涼子の携帯電話にメール着信を知らせるランプが光った。
「写真があがってきた。見せたいんだけど、今、どこにいるのかな」
祐二からの短いメール。タイトルは「写真」。涼子は冷めかけたコーヒーに口をつけると祐二からのメールを削除した。
「コーヒーのお替わりはどうですか」
「ええ、でも、いいんですか」
「気持ちが落ち着くまでいいですよ」
女性の店主が静かにコーヒーを注いでくれた。はじめてのことだった。
「大丈夫ですよ、笑顔を忘れなければきっとうまくいきますから」
涼子が店主の言葉に驚いて顔を上げると、彼女はゆっくりうなずいてレジの方へ戻って行った。
暖かいコーヒー、不思議な言葉、柔らかい陽射し。涼子はテーブルのグリーンを少し引き寄せると、自分に言い聞かせるように話しかけた。
「このコーヒー飲み終えるまでにもう一回、祐二からメールが来たら、、、」
そのとき光った携帯電話の着信ランプは陽射しに包まれ、涼子はまだそれに気づかず2杯目のコーヒーに口をつけた。
3. きみの写真を撮ろうとするわけ
涼子は一度だけ祐二に尋ねたことがあった。
「ねぇ写真撮るの、楽しい?」
「楽しいよ。風景を切り取るのも楽しいし、涼子の笑顔を撮るのも好きだな」
「いっぱい撮ってるよね、わたしのこと」
「うん、だって自然な笑顔でこっち向いてくれるんだよ、涼子は」
−でも
と、涼子は思った。
−でもね、きみはいっつも尋ねてくるんだよ。「ねぇ撮っていい?」ってさ。
「涼子の笑顔をいつでも見れるようにさ、手帳に忍ばせておくんだよ」
裕二の口から意外な言葉を聞いた気がした。このひとはわたしの写真を持ち歩いてくれている。
「子供の写真を持ち歩くパパみたいだね。でもさ、だったら一枚あればいいじゃん」
「きみの笑顔って一種類だけじゃないだろ。いつも一緒じゃないんだからさいろんな涼子を持っときたいの」
「いつでも呼んだら会いに行ってあげるよ」
「そうもいかないだろう」
「わたしはそんな事ないよ。裕二はさ、わたしと仕事どっちて聞いたらきっとわたしより仕事を選ぶでしょ」
「聞くの?」
「聞かないよ、わかっていても知りたくないもん。でもね、それでいいのよ。そうじゃなくっちゃ。どんなときでもわたしは大丈夫だからさ」
「うそだね」
−そう、うそだよ。そんなのうそに決まってんじゃん。
涼子は顔を10センチ裕二に近づけた。
「じゃあ、うそだと感じたときだけは何をおいても会いに来てよ」
「わかんないな」
何食わぬ表情でテーブルの上のカメラを手にする裕二。
「えっ」
「いや、うそがどうかがわかんないってこと」
「わかるようになってよ、そのくらい。それだけでいいからさ」
−あのクリスマス一週間前、ここでそんな会話したなぁ。
二杯目のコーヒーを半分ほど飲むと、視線がテーブルの上の携帯電話に落ちた。折りたたんだその携帯の小窓にはメールの着信を知らせる絵文字が静かに点滅していた。
−あっメールだ。
そう思い携帯電話を手にとろうとした涼子の視界に息を切らした裕二の姿が入ってきた。久しぶりに会うふたり、涼子は裕二の顔を見ながら昨年のクリスマスのやりとりを思い出していた。
「今夜、行けなくなった」
「仕事なんだね」
−どうしても来れないの。
「予約どうしよう」
−遅くなっても来てほしいな。はじめてのクリスマスだよ。
「大丈夫だよ。キャンセルも」
「どうしてる」
「そうだね、観たかった映画が今日までなんだ。それに行くよ」
−クリスマスまでの映画なんてないよ。会いたいな。
「じゃあ、わるいな」
それからずっと続いてる裕二の多忙な仕事。
なんとなく会いたくなくなったのは涼子の方。
「やっぱりここにいたんだね」
−ねぇわたしたちはどこにいるのかな。
「写真、クリスマスの前にここで撮った写真、できたぜ」
−ずっと会ってなかったね。
裕二はお店のサービスのコーヒーを受け取ると、涼子の隣にゆっくり座った。座るとひじをつき、涼子の顔を覗き込んできた。満面の笑顔、裕二の笑顔。
−不思議だなぁ、この笑顔。
裕二の笑顔が涼子のわだかまりを溶かしていく、涼子自身がそれを一番感じていた。
4. 陽射し
階段に腰掛けて、暖かい陽射しを浴びいてたあの頃。隣に座っていた子の存在は感じられなかった。泥んこになった顔のまま、暖かな陽射しに包まれて、ほっとしていたぼく。季節はいつだったのだろう。真夏ではなかったとしか思い出せない。
ポケットのメモを開いてみる。「午後7時、要TEL」
店の古びた柱時計に目をやる。22時を少しまわっている。携帯電話のアンテナは圏外だ。カウンターの端に置かれた電話からあの子に電話をかけると、約束の時間に遅れたぼくの声は留守番サービスが聞き留めてくれた。
「なぁ、春だったっけ。そんな気もするんだ」
「この前、軽井沢に行ったのは去年の私の誕生日よ。夏。話、聞いてるの?」
そうか、今、ぼくらは軽井沢に行く日程を決めてるんだ。
「電話で決めるはずだったのに、時間に遅れるから。このところ忙しいのに合間をぬってきたのよ」
休みをつくっては二人で軽井沢に行く。テニスをするわけでもなく、サイクリングポイントは回り飽きている。ただなんとなく遠出のドライブ。シーズンオフを狙って静かな散歩のために。
もう、あの子とのつきあいも長くなる。長いつきあいの間で、どちらから言うともなしによく軽井沢には行くようになった。
「あなたが時間に遅れるから今日一日時間をさいたのよ。ぼんやりサンに会いに来たんじゃないの。これでも今日は楽しみにしてきたんだから。久しぶりだもの」
この通りも往来が激しくなってきた。少し静かすぎたけど、はじめは小粋な喫茶店だと思っていたのに。歩道を歩く人たちの色も騒がしい。緑ももっとあったはずだ。不自然な色が多すぎる。そういえばコーヒーの味も違っている。
「・・・どうしたの・・・行くのもう・・・やめにする・・・?」
心配顔でぼくをみているあの子が前に座っている。そういえばあのとき隣に座っていた子の名前さえ思い出せない。それとも誰もいなかったのだろうか。
「・・・久しぶりだよ、会うの・・・」
ぼくの前にきみがいる。
「行こう」
「えっ?」
「軽井沢、今から」
ポケットから車のキーを出す。いつのまにか陽射しが優しくなっている。暖かく、優しい陽射し。
「もう春だね。今から、本当に、・・・行くの?」
そうだ、この位の陽射しだった。
首都高速を走っていると、窓からの陽射しがきみをすっぽりと包んだ。
「ねぇ、小さい頃さ、一緒に陽なたぼっこしなかったっけ」
きみは不思議そうに首をかしげ、陽射しに包まれた笑顔をぼくに向けた。
5. 94度のきみとぼく
目が覚めると、熱いコーヒーを入れることにしている。
フィリップスのコーヒー・メーカーは使わない。またベッドの誘惑に負けそうになるから。だから、陶器のドリッパーに自分でお湯を注ぐ。
「エスプレッソは朝向きじゃないわ。それに生理的にいやなのよ」
と、言い張るきみの主張を尊重した趣もある。
ドリッパーにペーパーをセットし、ペーパー全体にお湯を掛け、ドリッパーとサーバーを温める。ペーパー用に挽かれたマンデリンを蟻地獄をつくるようにペーパーにのせる。ゆっくりと蟻地獄を呈した豆の周りからお湯を注ぎ、全体を蒸らす。このあいだ、パンにバターを軽く塗りつける。これが豆を蒸らすにはちょうどいい時間だ。しっかりとバター塗ってはいけない。当然2枚も塗っていたら、蒸らしすぎで豆本来の香りを逃してしまう。月並みな言葉だが、香りは命だ。蟻地獄が一つの固まりとなり、蒸れてきたところで一気にお湯を注ぐ。
このお湯の温度は94度が最適であり、それ以上でも以下でも充分にマンデリンの味を出すことはできない。
94度、これが最適なのである。
学生時代、この94度を見つけだすために温度計を買ってきて、幾度となくがんばった。9カ月と17日費やした。今ではお湯のにおいから94度が判るようになっている。はじめ手でティーポットをさわって最適な温度をつかもうと試みたが、手に火傷はするわ、そのうえ冬になると熱さに対して手は敏感になりすぎた。そんなこんなで温度計に役割を譲った。譲ったおかげで感覚に余裕ができ、あることに気づいた。信じないかも知れ無いけれど、お湯には、正確には、湯気にはにおいがあり、温度と密接な関係を持っている。これにさえ気付けば、94度を見つけだしたあとには温度計は不要となる。とりあえずドリッパーの傍らにはお守りとして常に存在するようになるのではあるが。
93度でいれても、95度でいれても誰も気にはしない。でもぼくにとっては、化粧をして演奏をしていた頃の”キッス”と、化粧を取ってしまった”キッス”ほどの違いがある。映像を観なくても化粧をステージを鮮明に思い浮かべる事が出来、何かわくわくするものがあった。”キッス”は化粧があって初めて”キッス”なのだから。当然94度は化粧に身を包んだ”キッス”と言うことに間違いはない。
「ねぇ、いつも94度でいれてるんでしょう」
きみが何か意味ありげに聞いてくる。
学生時代、ろくに学校も行かずに、コーヒーを買いにいっては温度計とにらめっこをしていたぼく。その9カ月と17日の間ろくすっぽデートもできず、たまに会っても、コーヒーくさいくさいと言っていたきみ。
9カ月と18日目の朝、きみに電話を入れた。マンデリンにとって最適の温度、94度が見つかったのだ。お祝いに味わいにきてもらいたかった。きみに一番に口に運んでもらいたかった。これからはいつでも最高においしいコーヒーが飲めることを判ってもらいたかった。
「と、言うわけなんだ。今からどう?」
と、ぼく。
「もっと早く言ってくれれば良かったのに。一週間前とかさ。今日、もう、他の人と約束があるのよねぇ」
と、きみ。
一週間前から94度が判っていれば、その一週間前にも94度が判ることになって、突き詰めればぼくの生まれる以前から94度が判っていることになる。
飲んでもらいたい人のいなくなった94度のコーヒーは、しばらくの間、ぼく一人の94度のコーヒーとなってしまった。
束の間のしばらくと、最近のきみは言う。でもしばらくという言葉をぼくが使いたくなるほど長く感じた。
きみいわくの束の間のしばらくの間に、ぼくの入れる94度のコーヒーが友だちの中で評判になり、きみの耳に届いた。それ以来きみとぼくは友だち連中から、94度の彼女とか、94度の彼氏と呼ばれるようになった。いまだにその呼ばれ方に対して何ら違和感すらも感じていない。
「今日は93度で入れてみてよ」
人間は、どんな動物でもよく似ているのだが、環境に慣れてしまうとその環境が自分にとって最良であることは身体では判っているのに、頭の何処かで、もっと良いところがあるに違いないと常に考える。
例えば、レストランで食事をする場合、連れがいるときなど必ずと言っていいほど、連れがオーダーした料理の方がおいしそうに見え、食べてみたくなる。自分の分は自分が一番食べたいと思ってオーダーしているにもかかわらずである。完全な例えとはなっていないが、人間とはそういうものであり、きみもまた当然人間なんだ。
「たった一度の違いってのを、飲み比べてみたいのよ」
「これが93度ですって言って飲んでもらったら、舌より先に頭でそのコーヒーを93度の味って決めつけてしまわないかい。94度のコーヒーを出されてもさ」
「そんな事ないって、ねっ」
もう長いつきあいで、何か考えているな、ってのは朝起きてちょっと横顔を覗くだけで二人とも充分判る。例え一緒に住んでいなくても、二人で朝を迎えれば、ましてや相手のその日の体調ぐらい軽いものだ。さっきのキスで、ここのところ風邪気味で鼻がよく利かないのにきっと気づいたのだろう。
「ねぇ、94度って温度、においで判断するんでしょう」
やっぱり風邪をひきかけているのに気づいているみたいだ。
「今度は、ちゃんと94度のおいしいコーヒーを入れたげるよ」
きみはぼくのために薬箱から風邪薬を出し始め、ぼくはドリッパーの側に昔から置いている温度計をティーポットのお湯の中に入れ、94度のコーヒーを入れる準備にとりかかった。
6. 初恋
ぼくがその子と出会ったのは、小春日和の暖かい午後だった。
その日、ぼくは近所の公園を一人で散歩していた。公園には、本当に春を思わせるような優しい陽射しが、ぼくを、いや、公園にいる人、そしてある物すべてに対し、包みこむかのように穏やかに微笑みかけていた。その微笑みを壊さぬように風は微風だになく、より一層、ぼくたちを、誰にでも優しくなれる、そんな気持ちにさせてくれた。
この公園にはぼくにでもわかるような草木がいくつか植えられていて、四季折々の風情を楽しませてくれた。とりわけ、この季節となると、鶏頭、彼岸花、金木犀が、目についた。
ビロードのような鶏頭は公園内の遊歩道に沿って植えられ、コーラル色の彼岸花は池から少し下がったところに生息していた。そして、金木犀はというと、公園の入り口と出口にひとかたまりずつ、あとは、公園の塀ぎわにところどころ花を咲かせていた。この花が暖かい陽射しに誘われて、かなり色の濃い甘い香りを漂わせ、道を通る人々をその日の公園に引き込んでいた。
そのほかにも公園の中にはさまざまな草木が秋色の花を咲かせていたが、ぼくにはどの花が何という名前なのか分からなかったし、知ろうともしなかった。このときのぼくにとって必要だったのは、花の名前ではなく、ある想いでの花、そのものだった。
公園の入り口で強い香りの金木犀を見た後、ぼくは遊歩道に沿って歩き、公園中央のベンチに腰をおろした。
「なんて気持ちのいい一日なんだろう」
陽射しが正面からぼくをとらえ、暖かかった。ベンチの近くでは、金木犀ほどの香りはないにしても、似たような芳香が放たれていた。甘い香りに誘われて、久しぶりにこの公園に来たことをすごく幸せに感じた。日常の生活を忘れてしまうような心地良さだった。
「へぇー、珍しい木があるのね」
ベンチでうとうとしていたぼくが、一瞬、まぶたから明かりを失ったかと思うと、感心するような声が、ぼくの前から聞こえてきた。
「銀木犀なんだ。東京には少ないのにね」
知らない間にぼくの前に立っているその子はそういって、隣にすわってきた。
「あなたも入り口の金木犀に引かれて、今日、この公園に来たの?」
「金木犀にはね、”あなたの気をひく”っていう花言葉があるのよ」
「あっ、そうかぁ、だから公園の入り口に植えてあるんだ」
「あれっ、出口にも確かあったわ」
「また来てもらいたいからだね、きっと」
「公園中まわったんだけど、ここだけなのよね、銀木犀が植わってるの。このベンチの後ろだけなのよ」
眠りからさめて、ぼくが現実の世界に戻ろうとしている間に、その子は思いつく事をいろいろと口にしていた。
ようやくぼくが自分を感じ、ちょうどその子の存在を認めたとき、その子はぼくに向かってこう言った。これが二人の始まりだった。
「銀木犀の花言葉はね、”初恋”なの」
銀木犀の花言葉で始まった、きみとぼくの恋が半年をむかえようとしていた。二人が出会った公園の入り口には、黄梅が特有の黄色の花をつけ始めた。二人で座る銀木犀のベンチの近くには、沈丁花が咲いていた。
「ねぇ、知ってた? 黄梅はね、モクセイ科なんだよ」
きみが先に話を始めた。
「黄梅って?」
「入り口のところにあった黄色い花をつけてた木」
「秋に金木犀があったところ?」
いくらぼくでも、金木犀は知っているし、覚えてもいる。
「うん、その反対側」
「じゃぁ、なに? この公園の入り口はモクセイ科で固められてるってこと?」
きみはにっこりうなずいた。花や草木の話をするのが本当に好きなんだ。
「今、香ってるのは何の香りだ」
きみの期待に答えて、花の話を進めてみる。
「沈丁花」
秋に銀木犀の香りに包まれていたこのベンチは、春を迎えて沈丁花色に染まっていた。
「この公園って、恋人達のためにあるのかしら」
しばらくたって、きみが不思議そうに口にした。
「だって、そうでしょう。この公園には、椿もあるし、あせびもあるのよ」
ぼくにはきみが何のことを言っているのか、さっぱりわからなかった。きみはきょとんとしているぼくに気づいて、言葉を続けた。
「みぃんな、花言葉が恋人たちむけなのよ」
「たとえば?」
「うーん、あせびはねぇ、入り口から入って、ちょっと行ったところの右側にあった木ね」
ぼくは覚えていなかった。
「あの木なんて、”二人で旅に出よう”っていう花言葉を持ってるの」
ぼくは感心する以外にはなかった。ぼくが知ってる花の数なんてたかがしれているし、ましてや、花言葉なんて知りもしなかった。
そんなぼくに、きみは自慢げなんてこれっぽっちもなく、小さい子供に言って聞かせるように、優しくそっと花の話をしてくれた。
ぼくは花の話をするきみの顔を、きみのくちびるを、きみの瞳を、見るのが好きだった。
ぼくは学生時代に入っていた映画部のロケでこの公園を知った。ロケは春先から秋の終わりまでかかり、そのあいだ幾度となく公園でのシーンを撮った。
撮影は順調に進んでいたが、ファインダーをのぞくたびに、ぼくは思い出せない何かにいらだっていた。
撮影の最終日に、出演してくれた女性に花束を贈った。ぼくらの映画部には、同じ女性には二度と出演依頼はしない、という変なしきたりがあった。だから最後には必ず花束でねぎらった。
「感謝の気持ちを込めて、花を贈りたいんですけど、どんな花がいいと思いますか?」
公園の近くの花屋に、当時、助監督兼カメラマンのぼくが花を買いにいった。
「相手は女性の方?」
赤いめがねの店員さんは、優しく尋ねてた。花なんて買ったことのないぼくはそう聞かれただけで、妙に照れくさかった。
「あっ、やっぱり、どれでもいいです」
店員さんとなるべく目を合わさないようにぼくは答えた。
「それはよくないわ。”まごころ”って意味で、コスモスになさい」
その店員さんは、きちんと、贈る人、贈られる人の気持ちをくんで、花を包んでくれた。
監督が、出演してくれた女性にコスモスを贈るときも、ぼくはカメラを回していた。少しでも幻想的なイメージで撮りたかったぼくは、後輩の照明係に頼んで、光線の具合を変えてもらっていた。
監督が花束を渡し終えたとき、淡いイメージで写るファインダー越しの花束と女性に、ぼくのなつかしい思い出が急によみがえった。
中学校三年生の時、九州から東京へ引っ越してきた。田舎のクラスメートにさよならの挨拶をして、教室を出て、校門まで歩いた。
「これっ」
そう言って、ピンクの花をさしだす女の子が、そこには立っていた。
「ぼくに、、、」
「うん」
瞳の大きい女の子だった。
「”あなたを忘れない”っていう花言葉があるのよ」
先回りをした悪友たちが、一つ先の信号で冷やかしの口笛を吹いている。
「あっ、ありがとう」
ぼくは花を受け取ると、あわててカバンを開き、中に手ごろな何かがないものかと探した。
「ごめん、お返しにあげるものが見つからない」
「うぅん、いいの。でも、私とその花のこと、忘れないでね」
その子の笑顔は夕日に生えて、綺麗だった。
「じゃあ今度会ったときは、ぼくが花束を贈るよ」
そう言って、ぼくは悪友たちの元にかけて行った。そこでは悪友たちが最後の冷やかしを楽しんでいた。
「今の子ってさ、お前が一年生の時に、ラブレター渡した子だろ」
「えっ?さっきの子みたいにスマートじゃないぜ、あの子は」
ぼくが忘れるわけないじゃないか。ぼくは悪友の言葉を否定するように言った。
「でも、いつ退院したんだろ。結構、病気、重くって、あの後ずっと入院してるってきいてたけどな」
その言葉を聞きながら、校門の方を振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
「おつかれさま」
監督の言葉で、花束の贈呈式が終わったのを知った。撮影中のいらだちをぼくは思いだした。
「忘れていたんだ」
この公園なら、あのとき、あの子からわたされた花を見つけられるかも知れないと思った。あのときの花を見つけることが、初恋に対して、あの子に対して、ぼくができるただ一つのことだと思った。すでにぼくは昔の悪友から、あの子が二度と学校に姿を見せることはなかったと、伝え聞いていた。
さまざまな花が、四季おりおりに咲く、この公園。ぼくは大学三年の秋、映画の撮影終了と同時に、この公園の近くに移ってきた。
夏がきて、初めてぼくの部屋に遊びに来たきみに、この公園の近くに越してきた訳を話した。
「で、その花は見つかったの?」
西日が差し込む窓に腰掛けて、きみはぼくに尋ねた。
「うぅん、正直言うと、はっきりと花の形を思い出さないんだ」
「全然?」
寂しげにきみが尋ねる。
「菊のようでもあり、コスモスのようでもあり。でも、転校したのが夏先だったからね。ただ、薄い紫のピンクっぽい花だったという気がするよ」
きみが腰掛けている窓から、緑色の風が吹き込んできて、初夏を感じさせた。
「ねぇ、公園行かない。見つかるかも知れないよ、その花」
ぼくの部屋から公園へと向かう途中に、学生時代にコスモスを買った花屋がある。そのとき以来、この花屋に立ち寄ったことはなかった。
「ねぇ、わたしにお花、買って」
「どうしたの。急に」
きみはぼくにせがんだ。
「苦手なんだよなぁ、花買うっていうの」
「最初で、最後でいいから。買ってよ」
本当に買ってほしいと、きみはぼくにせがんだ。
花屋には、赤いめがねの店員さんはいなかった。彼女がまだいたら、コスモスのお礼でも言おうかと思っていたのに。
「スイートピーがいいな。赤と白、一本づつでいいよ」
あのときの店員さんを探しているぼくをつついて、お店に入って、一分もたたないうちに、きみがそう言った。
「決めてたの? その花って」
きみは黙ってうなずいた。でも、いつものように”花言葉”は口にしなかった。
公園の中央には、エニシダが黄色い花をつけていた。これもきみが、そろそろ咲くよ、って教えてくれた花だ。
きみはそのエニシダには見向きもせず、スイートピーの香りを楽しみながら、ぼくに話しかけてきた。
「お花、ありがとうね」
「うん、いいんだけどさ、はじめてだな、人に花を買ってあげるっていうの」
ぼくはきみのうれしそうな笑顔を見ると、もっと早くから、もっとたくさんの花を買ってあげればよかったと思った。
「うれしいな、やっと、買ってもらっちゃった」
ぼくは素直によろこぶきみの手をとった。でも、そのとききみはぼくの手をほどき、そして、寂しそうな、でも、とても暖かい目をして、言葉を続けた。
「あのときのピンクっぽい花は、”紫苑”っていうんだよ」
「えっ」
きみはスイートピーを左手で胸に抱え、右手をぼくに差し出した。差し出されたきみの右手には、いつのまにかに、あのときと同じ花、紫苑があった。
「あなたを忘れない。あなたの優しい想い出をありがとう。あなたは私の初恋だったの」
そう言うと、夏の夕日の中、きみの姿が薄れていった。きみをつかもうにも、ぼくの両手はあまりに現実的すぎた。
残されたぼくのまわりには、季節外れの銀木犀の香りが、いつまでもぼくを包むように漂っていた。
「きみもぼくの初恋だったよ」
ぼくは、きみが立っていたところに咲いている紫苑に向かって、そうつぶやいた。
7. お月様との約束
ともこちゃんにはお月様が見えなくなってしまいました。
さみしいとき、いつも楽しい話をしてくれたお月様。夜空を見上げてどんなに探しても見つけることができません。
ともこちゃんがお月様とお話をはじめたのはちょうど一年前。
ゆうごはんのおかずを残したので、お母さんにしかられた夜でした。ともこちゃんはお部屋のベッドに腰かけてしくしく泣いていました。するとどこからともなく優しい声が聞こえてきます。
「おやおや、ともこちゃん、そんなことで泣いてちゃだめじゃないか」
ともこちゃんは涙ではれぼったくなった目で、部屋中をきょろきょろ見わたしました。
「ぼくならこっちにいるよ」
優しい声はお部屋の外から聞こえてきます。きょとんとした顔でともこちゃんは窓のほうに目をやりました。
すると、びっくり。夜だというのに、ともこちゃんの部屋の窓からは明るく白いきれいな光がさしこんでいます。
ともこちゃんは吸い込まれるように窓の方に歩み寄りました。
そこには夜空いっぱいの大きなお月様が、にこにこ顔でともこちゃんを見ているではありませんか。
「楽しいお話をきかせてあげよう。聞きたいかい」
ともこちゃんは大きくうなづきました。
「聞かせてあげてもいいが、もう、にんじんを残しちゃ、だめだよ」
お月様にはなんでもお見とうしです。
「約束できるかい」
ともこちゃんはちっちゃくうなづきました。
「本当に大丈夫かい」
「うん」
「それともうひとつ。ぼくとともこちゃんのことは誰にもないしょだよ」
お月様が見えなくなって、一週間がたちました。まだ、ともこちゃんはお月様に会うことができません。
さみしくってさみしくってしかたがないともこちゃんは、とうとう、お母さんに相談してしまいます。
一年前から楽しいお話を聞かせてもらっていたこと。その楽しいお話の数々。
お月様とのこと自体が実はないしょのこと。
「ともこちゃん、一週間前に、にんじん残さなかったかな」
ともこちゃんはお月様との初めての約束をすっかり忘れていました。
今となってはどうすることもできません。とうとう、ともこちゃんは泣き出しました。
「くらくなったら、お空に向かってあやまりまさい。ごめんなさいって」
お母さんはともこちゃんの涙をふいてあげました。
ともこちゃんはそれでもしくしく泣きながらお部屋に戻ります。
するとまだお空は明るいのに、窓からお月様が見えます。ともこちゃんは両手をしっかり合わせ、深々と頭を下げました。
「お月様、ごめんなさい。もう約束は破りません」
お月様は何にも答えてくれません。
「にんじんももう残しません。玉ねぎも食べます。宿題も忘れません。いたずらももうしません」
ともこちゃんは考えられるだけのことをお月様に向かっていいました。全部いつもお母さんに言われていることです。これにはさすがのお月様も笑いをこらえることができなくなりました。
「わぁっはっはっはっは、しょうがないともこちゃんだなあ、そんなにたくさん約束して守れるのかい」
ともこちゃんも照れてしまいました。
「また、ともことお話してくださる?」
おそるおそるともこちゃんがたずねます。
「お母さんにばれちゃったけど」
お月様はにこにこしています。ともこちゃはなんて言われるか、心配でなりません。
「お母さんもぼくのお友達だよ。ともこちゃんと同じくらいちっちゃい頃からね」
そうこうお話をしているうちに空は少しばかりうす暗くなってきました。
「ともこちゃん、たまにはお母さんと三人でお話をしようか」
ともこちゃんはお月様のその言葉がうれしくってうれしくってしかたがありません。だって、これでお月様とのことはお母さんにならいくらでも話すことができるんですもの。
おおきくうなづいて、ともこちゃんが言いました。
「お母さん、呼んでくるね」
お月様もにっこり笑ってうなづきました。
8. 線香花火
涼子の眼鏡に花火が咲いた。その限られた空間に広がる美しさに祐二は釘づけにされた。
「綺麗だ」
思わず口に出る祐二の言葉。
どぉん、と夜空に響く打ち上がる音の隙間を縫って、祐二の言葉は涼子の耳に届いた。涼子は花火の興奮でうっすらと赤くなっている頬を祐二の頬にくっつけ、彼の耳元でささやく。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
涼子は一瞬、祐二に身体を預けたが、花火が晴天の夜空に勢いよく翔け登っていく音を耳にすると、真夏の風物詩に吸い込まれるように向きを変えてしまった。
祐二の襟元に残った淡く甘い香り、胸に押しつけられた柔らかい弾力のある温かさは、彼の視界から花火のきらめく色をモノクロームに変えてしまった。
モノクロームの花火の中、祐二は去年の涼子を思い出していた。
「どうして花火大会の日にぶつけるの」
「そこしか取れなかったんだから、しかたないだろ」
二年振りの避暑地への休暇。涼子の都合で一週間ほどの休みも取れず、ほんの二泊三日の小旅行、場所を長野と決めた。何となく二人にとって懐かしい場所だった。
日程は木曜、金曜、土曜だ。涼子はシステム手帳のカレンダーと予約確認のファックスを何度となく見比べては、考えを巡らせていた。祐二がコーヒーを飲み干し、通りの紫陽花にかたつむりを探し
ていると、涼子が陽射しを遮った。
「大丈夫よ」
晴れ晴れとしている涼子の顔。
「機嫌、直ったみたいだね」
組んだ足を元に戻し、涼子のほうに座りなおす祐二。
「最後の日ね、長野の、土曜日よ」
「うん、土曜日だよ」
「午前中には向こうを発つの」
「えっ」
「そうね、向こうを発つ前においしいコーヒーを飲みましょう」
「何それ?」
「だから、おいしいコーヒーを飲んだら、すぐに東京に戻るのよ」
涼子の話だと、その足で花火大会の会場近くまで行って花火を満喫する計画らしい。渋滞なんてどこ吹く風だ。
「だって、そうじゃない。土曜日よ、避暑地に向かう車は沢山あっても、戻ってくる車は少ないはずでしょ」
身を乗り出して、システム手帳を指でこつこつと指しながら意気揚々と説明する涼子の後ろで紫陽花がゆっくりと揺れていた。祐二は半ばあきれ、半ば感心しながら、涼子の計画に同意した。
しかし、涼子の計画した祐二がそう呼ぶ一粒で二度おいしい夏休み案は、彼女自身の急遽追加した行動により、もろくも崩れるはめとなってしまった。崩れる?いや、それ以上の兆候をも示すきっか
けとなってしまった。
右へ曲がれば高速自動車道、帰路、バイパスで小旅行から戻る二人は予定通り下りの渋滞を尻目に、そこまで来ていた。
「駅前のホテルのとこにあるショッピングセンターね」
「行こうって言うんじゃないだろうなぁ」
祐二の勘のよさに、涼子は舌をひょっこっと出した。
「本気かよ」
今度は体全体を笑顔に変えた涼子が、祐二に向かって微笑みを投げかける。祐二は髪を掻きあげながら、ハンドルを予定とは逆の方向に切り、車をショッピングセンターへと向けた。
「予定外の行動じゃないか」
「前々から行きたかったの」
「花火はあきらめたのか」
「んなわけ、ないじゃん。十分、間に合うわよ。大丈夫」
涼子の頭の中には都内の渋滞は予想だにされていなかった。祐二もまさか東京がこんなに混んでいようとは考えも及ばなかった。
避暑地での涼しい夏、気持ちよく走れる道路、周りを流れていく風景。どれをとっても夏休みのピークをはずした小旅行は的確だった。最後の最後での追加行動による影響を除いては。
今年の花火の音が地面に響く。
単色の黄金色が夜空にしだれ柳を広げる。
その横で黄金の柳に負けじと青、赤、黄色の花が咲く。
目の前のパラレルワールドとともに祐二の風景がフルカラーに戻った。夜空に広がる三色の大きな花は、涼子の黒髪を美しく飾っていた。
長野から都内に帰りつき、環状8号線の渋滞からどうにか抜け出したころには、時間は8時を回っていた。
「始まっちゃってるね」
涼子がため息混じりの声で、助手席側のガラス窓をコツコツと叩く。間に合わなかった事に対する非難めいた感情はその行動には感じられない。
「一番最後のでかい打ち上げには間に合うも知れないぜ」
「ううん、いいのよ」
涼子はそれでも諦めきれない笑顔で渋滞に疲れはじめている祐二をねぎらった。そんな涼子を祐二はかけがえもなくかわいらしく思え、ギアを握る左手を涼子の膝にそっと乗せた。涼子の温かい体温
が祐二にはうれしく感じた。
「あれっ?」
涼子の顔に笑顔が走る。車は起伏のある国道へと抜けはじめていた。ゆるやかなアップダウンに沿って遠くの景色が見え隠れしている。涼子はガラス窓に身をつけ、膝に乗っている祐二の左手を握り締めた。
「花火、だよ」
ゆっくりとそしてつぶやくように涼子が言葉を口にする。その言葉に振り向く祐二の目にもビルとビルとの隙間に遠くの大きな花火が映った。遠くて小さくしか見えないけれど、確かに大きな打ち上
げ花火だ。
「観れたね」
「まだ、間に合うかもな」
涼子の手に気持ちを伝える。行ってもいいんだぜ、行こうぜ。涼子は窓に視線を通したまま、祐二の手を強く握り返した。涼子が少し興奮しているのがわかる。
「うぅん、本当にいいのよ、それより」
「ん? どうした」
「今夜、泊めてくれない?」
花火を見れて少し落ち着いたのか、長い黒髪を無意識にすく涼子の顔に渋滞の疲れが見え隠れしはじめていた。
このときの疲れが前兆だったのかもしれない、祐二は時折、涼子の我慢で繕ったであろう笑顔を思い出す。
「ハッピーバースディ」
病院のベッドで涼子は祐二の誕生日に優しく微笑んだ。
突然の入院が涼子の身に降りかかったのは、小旅行の翌年の、そう、今年の梅雨前だった。体のだるさが取れないからと検査に行って、それきり入院となった。検査入院のはずだった。
梅雨前のそよ風は肌を流れるようで気持ちよく、開け放した窓についている古いカーテンがなびこうが二人はいっこうに気にもしなかった。涼子の入っている六人部屋はまだベッドが二つほど空いて
いた。
「これってどういう意味だ」と、涼子。
ハッピーバースディと言った涼子が祐二の手をつかむ。ほんの少しほてりを感じる涼子の掌。検査入院が長引いている涼子に対して、祐二は妙な心細さを感じた。
「誕生日おめでとう、だろ」
涼子はちょこんと舌を出した。出会ったときからの涼子のくせ、自分は大丈夫だと伝えたいのか。その行動とは裏腹に、薬のせいだろうか、白く変わった涼子の舌は彼女が今、病気である事を祐二に
印象づけるには十分だった。
「幸せになってねっ」
「えっ、」
「幸せになってねって意味だよ」
涼子の声がこころなしか少し震えている。涼子の肩が我慢している。涼子が一生懸命笑顔を作っている。
「違うだろう」
祐二は二人を包むそよ風に溶けこむような笑顔で涼子を見つめた。涼子が不思議そうに半分口を開ける。きょとんとした不安そうな顔。
「なに?」
「幸せになろうねって、それも、一緒に幸せになろうねって意味だろ」
涼子の顔が優しく崩れた。祐二の言葉がゆっくりとそして確実に涼子の胸に染みる。涼子は目の前にいる祐二を確かめたくて、自分の両腕で彼の腰を強く抱きしめた。
「そうだね、そうだよね、祐ちゃん」
「それでさ、退院したら、もっともっと幸せになろうぜ」
涼子は祐二の胸に顔を埋め、ただ頷くだけだった。
今年の花火大会を待たずして他界した涼子。
花火の一週間前、突然、涼子の身に異変が起こった。首の後ろ付け根に巣食っていた腫瘍が脳からの信号をいきなり断ち切った。その結果、心臓にも、肺にも信号は飛ばず、看護婦の巡回のときには
すでに息を引き取っていた。安らかな死に顔で最初、看護婦も信じられなかったという。
「気晴らしに中庭で線香花火やらないか」
「調子は悪くないんだけど、なんとなく火薬の匂いがちょっとね、ごめん」
「気にするなよ、それより、来週花火大会だから体調崩すな。外出許可がもらえなくなったら行けなくなるからさ」
入院が自分が思っていたより長く、このところ塞ぎ込んでいた涼子。そんな涼子を少しでも元気づけようと、彼女が好きな線香花火を買ってきた祐二。
この日の深夜、祐二は落ち着かず、自分の部屋で一人静かに線香花火に火をつけていた。涼子を少しでも元気づけようとここ二三日探して見つけた国産の線香花火。
「このところ国産の花火を見た事ないね、これも韓国製だし」
小旅行の最後の夜、持参した花火に火をつけながら涼子が言った。
「情緒が薄いって気がするよね、何となくだけど」
祐二は涼子の言葉に返事をするわけでもなく、彼女の膝元で、それでも懸命に火花を散らしている花火に視線を移した。確かに涼子の言うとおり、やみくもに火薬を消費しているようにも見える。ど
うしてだろう。
「ねっ、火花にさ、手のぬくもりが感じられないのよね」
あっという間に涼子の花火は命を終え、辺りはまた白い月明かりに包まれた。
「やっぱり線香花火は国産よねぇ。子供の頃、火花が菊に見えてたもの」
国産の線香花火は祐二の部屋で目映く大きなオレンジ色の玉をつけ、細かい火花で彼を染めた。限りあるオレンジの玉は最期の一瞬まで輝きを失わず、祐二の目を離さなかった。これが涼子の言って
いた線香花火、確かに膝元で菊の花が咲く。
祐二はわざわざ花火の一本一本にマッチから火をつけた。火花が咲いている最中に次の花火に命を移すような事はしなかった。一本一本を大切に見つめていた。どれくらいだろう、十本目だろうか、
二十本目だろうか、祐二の視野から床が消えた。次いで壁が消え、そして線香花火を持つ彼自身の右手までが存在を無くし、オレンジ色の菊花が薄いカラフルな色に変わり、祐二の顔の前で大きく膨
らんで浮いた。
ー来週だよね。
ーそうだね、きっときれいだよ。
ー今年は近くで見ようね、ちゃんと連れてってよ、約束だよ。涼子はね、色の綺麗な花火が好きよ。
ー俺は、そうだな、大きく丸い花火が好きだな。
この線香花火を通して涼子と会話ができたのか、それとも昼間そんな話をしたのか、祐二はぼんやりと考えた。右手の線香花火はそんな祐二を残し、火を閉じた。カラフルな色は単色に戻り、すっと
身を引くように祐二の元から消えた。
「必ず行こう、来週。なっ」
火の消えた線香花火に向かって、祐二はつぶやいた。
夏の最期の花火の音が地面に響く。
夏のさよならの音が胸を刺す。
夜空を埋め尽くす最期の色とりどりの花火が、涼子の後ろ姿をシルエットに変える。涼子が何か言っている。何発上がっているのだろう。涼子の声が聞きとれない。
「ハッピーバースディ」
「えっ」
涼子の声が最期の音に重なって聞こえた。祐二には確信できた。確かに涼子の声だ。
祐二は手に持っていた涼子の眼鏡をポケットにしまうと、うつむき加減に右手を天に突き挙げ、そして開いた。
「わかったよ、うん、ハッピーバースディ」
線香花火が祐二の手から宙へと舞った。
9. もう一度、あなたと歩きたかった
次郎はホームに吹き込んでくる冷たい風で細かく身震いを起こした。ホームには人がまばらで、それがよけい彼に寒さを感じさせた。
ーあったかいコーヒーでも買おう
自動販売機に歩み寄り、ポケットを探るが小銭が見つからない。ジャケットにある財布も取り出すが、お札しかなく次郎はため息をついてしまった。切符を買うのに小銭を使いきってしまったのだ。コインの投入口には五百円、百円の文字が書かれている。こうなると販売機の明かりさえも薄ら寒く感じてしまう。
「小さいお金、お貸ししましょうか」
「えっ、、、あっ、鈴木さんか。びっくりするなぁ」
次郎の後ろから声をかけたのは、今度の異動で隣の課に移ってきた鈴木涼子だった。
「こまかいのがないんでしょう」
次郎からしてみれば、鈴木涼子は部の歓迎会で1、2杯ビールを注いでもらった程度にしか関り合いはない。突然の申し出に返事を一瞬躊躇するあいだに、涼子は小銭入れをハンドバッグから取り出していた。
「あっ、いいですよ。僕はないならないですみますから」
「うぅん、わたしが、あったかいカフェオレが飲みたいの。そのついでといっては何ですが、宮下さんはコーヒーでいいですか」
涼子の温かい笑顔が次郎の心をほぐした。コーヒーがなくても冷たい風なんか関係なくなっていた。
電車が来るまでにゆっくりとコーヒーを飲む時間はあった。手渡されたコーヒーは温かく、その時触れた涼子の手はとても冷たかった。
「手、冷えてますね」
「えぇ、だから、この季節は電車待ちのあいだ、暖かい缶コーヒーが必要なんですよ」
二人はそれぞれの缶コーヒーを両手で包みこみ、似たような格好でベンチに腰掛けている。何から話題を切り出していいものか、次郎の頭の中は、ああでもない、こうでもないと、話題の切り口が渦巻いていた。適当な話題で株を下げるにはもったいないほど、先程見せた涼子の笑顔はかわいかった。会社にいるときはそんなには思わなかったのに。
「歓迎会で始めてお目にかかって」
涼子がカフェオレを飲む手を休めて、うつむき加減で話しはじめた。
「えっ」
「お目にかかって、宮下さんとお話したかったんです」
次郎もコーヒーを持つ手を降ろし、彼女のほうに目線を移した。
「どういうこと、会社でも、お昼休みとか、いろいろ時間はあるじゃない」
「どうしても、人に邪魔されないときがいいと思って」
視線をホームの天井に持っていきながら、心の中で次郎はニタつきはじめていた。
ーふふん、俺もまんざらじゃなさそうだな
「宮下さん、」
ーおぉ、さっそくですか
「何ですか」
落ち着いた返答とは裏腹に、次郎の鼻の下は伸びていた。
「あなた、あとわずかしか生きられないんですよ」
「???」
「真面目に受け取ってください、3日のあいだに手を打たなければ、あなたは一連の流れから消されてしまう」
次郎には涼子の言っていることが唐突すぎて、理解しようとする気持ちにまでもなれなかった。真剣な眼で見つめる涼子と真剣さが理解できない次郎。今、二人の前に電車が到着した。次郎は視線をはずし立ち上がり、涼子は次郎の背中を凝視したままベンチに座っていた。
「あっ、コーヒー、ありがとう」
車両に乗り込む際、取り合えずお礼の言葉をかけようと次郎がベンチの方を振り向くと、そこには涼子の姿は既になかった。涼子は反対側のホームに到着した電車に駆け込んでいるところだった。次郎の電車がドアを閉めるとき、涼子と次郎は再び視線があった。次郎がコーヒー缶を顔のところまで持ち上げ軽く振ると、涼子はそれに気付き、微笑みながら顔を横に振った。
涼子の乗り込んだ電車は各シートに二人程度しか乗っていないほどすいていた。近くのシートの端に腰を降ろすと彼女はため息を一つついた。
「ため息をついている暇はないだろう」
「そうよね、そのとおりなんだけど」
「だったら、さっさと、次郎を抱いちゃいな」
「違うでしょ、抱くんじゃないの、助けてあげるの」
「目的は違っても、方法は一緒、一つだろ。それに次郎のためだけでもないだろうに」
「何がいいたいの」
「かっかするなって、みんな同じなんだからさ、自分が助かるために抱くのさ」
「一緒にしないで、一緒にしないでよ」
涼子の前のシートに座って彼女と見つめあっていたショートカットの茶髪の男は、次の駅で静かに降りた。立ち上がると涼子には見向きもしなかった。涼子はドアが閉まるのを見届けると浅い眠りに身を委ねた。
夢の中で涼子は次郎を懸命に説得している。しかし、何を言っても次郎は信じようとしない。何時間、何昼夜、説明しているのだろう。次郎は納得しない。納得しないわけは涼子には判っていた。次郎のためだけに知り合ったばかりの涼子が身を投げ出すのが合点いかないのだ。自分がどうなろうと、それは自分の運命なのだろう。その運命を変えてあげるとボランティアでいわれても、はいそうですかとは、言えない。みんな同じなんだからさ、自分が助かるために抱くのさ。茶髪の彼が言っていた。そうなのかもしれない。涼子は涼子自身に降り懸かるであろうことを口に出して次郎に言おうとしていた。口が動かない、急に声が出ない。慌てる涼子の前でますます次郎は不可思議な表情になっていく。涼子はお腹の底から声を張り上げ、状況を打破しようと試みた。両の拳をきつく握りしめ、わぁー。
涼子は目が覚めた。ちょうど、彼女が降りる駅に電車が到着したところだった。
「変な事言って、次郎の気を引かないでちょうだい」
お茶を入れるために同僚より少しばかり早く出社して給湯室に立っていた涼子に、美穂が肩をすり寄せながら言った。涼子はあやうくお湯を手にこぼしそうになった。
「危ないじゃない」
「危ないってあなたの性格のことかしら」
美穂は急須にお湯を注ぐと涼子に代わってお茶をつぎはじめた。
「それとも何かしら、あなたは神様で、みんなの運命を知っているとでもいうの。私の運命も教えてよ」
お茶をつぐ美穂の手は小刻みに震えている。派手な赤いマニキュアが一層震えを目立たせる。涼子は美穂を見ず、赤いマニキュアを見ながら、小さい声でぼそりと口を開いた。
「美穂さん、あなたは次にこの世に生を受けるときは、ゴキブリとなるのよ。それも人間だった頃の記憶を持ったままね。そして、次郎さんはてんとう虫になるの。でも人間の時の記憶はないわ」
口を半分開けたままの美穂は眼が点になっていた。
「でも、わたしは次郎さんを救えるの。わたしだったら次郎さんを人間に戻せるのよ」
首を横に降りながら美穂は急須を流しに置いた。
「ふうぅ、わかったわ、次郎に伝えとく。あなたは輪廻教の教祖様だってね。でもね、教祖涼子様は他の哀れな人を助けてあげて。次郎にはわたしがついるからだいじょうぶよ。今後、変な誘惑はやめてちょうだいね、おわかりいただけましたか、教祖様」
背中で笑いながら給湯室を後にする美穂を見ながら、涼子は独りつぶやいた。
ーだいじょうぶよ。あなたの次郎の想い出はすぐ薄れていくわ。次郎の存在と一緒にね
みんなにお茶を配っていると、隣の島の次郎が出社してきた。次郎は涼子と眼が合うと、昨夜電車のドア越しにとったしぐさをした。コーヒー缶を持つように指を丸め、それを顔の高さまで持ち上げ、軽く振った。
「おはよう」
「おはようございます」
「僕にも一杯もらえるかな」
計算されていたように涼子の持つお盆の上には余分にお茶が一杯、紙コップに入って残っていた。
「ええ」
次郎の島に歩きよる涼子の前を美穂がさっと横切る。涼子は気にもとめず、次郎に話しかけた。
「紙のコップでよければ」
紙コップを受け取る次郎に涼子は小声で話しかけた。
「宮下さんのうわさの彼女って、安達美穂さんでしょう」
お茶をこぼしそうになる次郎。
「隠したってだめですよ。でも内緒なんでしょ」
「はは。さっそく何か言われたの」
「美穂さんが宮下さんを守るそうです。でも、わたしのは自分のためでもあるから」
「そこのところをもっと聞きたいんだけどな。今夜、食事でも行こう」
次郎と涼子が話していると、美穂が遠くのほうから呼んでいる。
「鈴木さん、鈴木涼子さん、12番にお電話がはいってますよ」
会社が終わり、約束の噴水の前で涼子はベンチに腰掛けていた。
ー遅れないから、噴水の前でいいよね。今日は12月とはいえ暖かいから
次郎の天気予報通り、今日は一日、暖かかった。冷たい風は涼子と美穂の間にだけ吹き荒れ、涼子は気にもとめなかったが、美穂は事あるごとに突っかかってきた。
「言うに事欠いて、人間の記憶を持つゴキブリか」
「本当は何なの」
「ホタルだよ、綺麗なもんだろ。でもおまえが言った様に人間の記憶を持ってる」
「50年後くらい」
「いや、5年先の運命さ」
「そのお相手はあんたなの」
「俺の昔のダチだ。緑の眼をした奴。知らないか?」
「忘れたなぁ」
「性格まがってんので縁切ってやった」
「でも、5年後ねぇ」
「おまえの相手はおまえに気がありそうだから言っとくけど」
「忠告?」
「そう。いいか、相手から抱かれるなよ、自分から抱き倒せよ、さもないと、」
「さもないと、人として転生してこないんでしょう。せっかく交わっても人に戻れないんじゃねぇ」
「ふふ、お手並拝見といくか」
噴水の向こう側でたばこを吸っていた茶髪の男はたばこを噴水に投げ込むと、公園を後にした。彼が公園を出るとき、次郎とすれ違った。すれ違いざまに彼は次郎の肩をポンと叩いた。
「無理すんなよ、てんとう虫の色男」
振り返る次郎に人の姿は映らず、生暖かい風が次郎の足元で落ち葉を舞い上がらせた。
駅の階段下で次郎と涼子は強く抱き合っている。
食前酒、それに食事の後に行ったバーで次郎は調子に乗っていつもより少しばかり飲みすぎた。涼子が勧めたせいもある。昨夜の缶コーヒーを飲みながらの会話に話題が移りそうになると、涼子は質問をするりとかわし、その都度、次郎はグラスに口をつけた。
「僕の余命はあと2日なのかい」
「事によりけりよ」
ウイスキーをごくり。
「人は死んだらどうなるのかな」
「死ぬのは何も人ばかりじゃないわ」
マスター、おかわり。同じやつ。
「君は死ぬのは恐くないの」
「恐くないわ。でも、また人として生まれてきたいわね」
「鳥じゃ、だめ?」
「次郎さんに会えないもの」
氷がカラン、ウイスキーに沈む。
ー次郎さん、ご機嫌だけど、ちょっと飲みすぎだよ
サングラスをしたマスターが口を挟む。
「うん、今夜はこのくらいにしとくよ」
ー充分飲んでるよ
「じゃぁ、最後の一杯をつくっといて、シングルでいいからさ」
次郎がトイレに立った間、マスターは小気味よくアイスピックを使いはじめる。
「いつもサングラスしてるんですか」
ーサングラスとると、目立つもんでね
「きっと魅力的な眼なんですね」
ーどうでしょうねぇ。みんな一度見たら忘れないって言ってくれるけど
「見てみたいなぁ」
ー病み付きになるから、よした方がいいよ。それより奥のテーブルの女性はお知り合い?
涼子がそっと後ろを振り向くと、そこには美穂が座っていた。薄暗い奥のテーブルなので美穂とは断言できない、しかし気のせいか、テーブルにのせられた指先が赤いマニキュアだと思えてしようがない。また、その視線の強さからしてまず間違いはないだろう。
「マスターこそ見覚えないの?」
ーさぁ、この店に女性客なんて今夜で何年振りだから、一度でも来たことある人なら忘れないよ
「つけて来たのかしら」
ーえっ
涼子はマスターに何でもないと言って、話題を変えた。しかし、美穂の視線は痛いぐらいに涼子の背中に突刺さっていた。
テーブルの女性の視線など気にもとめず、次郎が戻って来た。結構飲んだ割には足元はしっかりしている。涼子はカウンターから離れ、視線を奥のテーブルに向けたまま次郎の腕に寄り添った。
ーすみにおけないね、次郎さん
マスターはサングラスのずれを中指で直し、にっこりと笑って二人を送り出した。
ーカウンターにどうですか、私も一人じゃ寂しいもので
次郎と涼子をドアまで見送ったその足で、マスターは奥のテーブルの女性に声をかけた。薄暗い中でも見てとれるほど女性の眼は涙であふれている。こぼれ落ちる涙をマスターの親指がぬぐったとき、美穂は自分の運命が判らなくなっていた。
「意地悪もしたくないし、次郎にとってはかわいい女の子でいたいの。でも、気づいたら二人をつけてて」
カウンターの明かりは美穂の赤いマニキュアを美しく輝かせた。
ーあと、そうだね、二日くらいの我慢かな。そしたらモヤモヤも晴れるよ、きっと
「二日たったら、クリスマスじゃないですか。クリスマスには次郎が戻ってくるというの」
ーそれはわたしにも判らない。ただ、モヤモヤが
「次郎がいないクリスマスなんて、考えられない」
ー次郎は幸せ者だね、でも、はじめっから次郎なんていないと思えばいいんだよ
マスターはジンをベースにホワイトレディーを美穂のためにつくった。
ーあなたの試練のときかもしれないね。でもこの二日を乗り切ると楽しい、これ以上の幸せな日々はないくらい充実した時がやってくるよ
涙の乾いた美穂はカクテルに口をつけながら、マスターの話に聞き入っていた。
「その幸せはずっと続くの?」
もうこんな思いは嫌だという表情の美穂。
ー私は永遠の幸せなんて信じていないのさ。思い出せる幸せなときがあればいいんじゃないのかな
美穂はクルリと椅子を回転させ、先程まで自分が座っていた薄暗いテーブルを見つめ始めた。マスターも美穂に背を向け、グラスを硝子棚にしまい始める。
「甘い言葉に更に磨きがかかったな」
ガラスに浮かび上がる茶髪の男がマスターに声をかけた。
「いきなり現れるなよ、俺と縁切ったんじゃないの」
「涼子が絡むもんでさ、ちょいとね」
「あと二日の間、クリスマスまでこの子に邪魔させなきゃいいんだろ」
「そうだな」
「いっその事抱いちゃうとか、手はいくらでもあるぜ」
「そうやって人の運命をもて遊ぶなよ。その子にはあと5年間の権利があるんだからな」
「それは後ろの子に言っとくれ。あの子の意志で落ちそうなんだから」
「相変わらず、嫌な野郎だな」
「だったら、さっさと消えちまいな」
ガラスにはマスターのサングラスだけが残った。
ギィー、バタン。店の古めかしい出入口から静かに音が響いてきた。
「あぁ、おどろいたぁ」
美穂の声にマスターが振り向く。
ー嫌なモヤモヤが自分から出ていった音だよ
サングラスをはずしながらマスターは美穂に笑顔を見せた。
「マスターの眼って」
ーきれいな色でしょ
緑色の眼が美穂の心を奪っていった。
次郎と涼子はタクシーで彼のマンションまで来ていた。次郎は自分がタクシーを降りるとき、強引に涼子の腕をつかみ一緒に降ろしてしまったのだ。電車だと駅で別れ別れになると言い、タクシーを使った。次郎はお酒の力を借り涼子をものにしようと思い始めている。涼子は涼子で美穂にデートの現場を見られた以上、明日から余計風当たりが強くなる、次郎を抱けるのは今夜しかない、と決心した。だから今、次郎のマンションの玄関に彼と向かい合って立っているのだ。次郎に抱かれてはいけない、次郎を抱くのだ。涼子は実際こういう状況になると弱くなる自分の意志に向かって言って聞かせた。次郎はドアを静かに閉めると、玄関の明かりもつけないうちに両手で涼子の頬を包んだ。次郎の手は冷たかったが、その厚みのある感触は涼子に男性を感じさせるには十分だった。それだけで涼子の鼓動は早くなり、次郎にそれを悟られるのが恥ずかしく感じた。自分の耳たぶが、次郎に包まれた頬が、熱くなっていくのがはっきりと判った。次郎の吐く息が近づいてくる。次第に暗闇に慣れて来た二人の眼は見つめ合うお互いを確認できるほどになったいた。次郎の唇が涼子の唇にふれ、彼の舌の温もりが涼子の口の中で広がったとき、熱く込み上げるものが彼女の芯で燃えあがった。その時、次郎の右手は涼子のスカートの下へと滑り込んだ。我を忘れかけている涼子に次郎の動きを拒むほどの反射神経はなく、そのまま冷たい玄関に涼子は倒されてしまった。
ーこのまま次郎に抱かれるのもいいな
次郎の優しい指の動きと、首筋に感じる彼の舌の感触が涼子の感情を熱い世界へゆっくりと引きづり込んでいった。ブラウスのボタンが、フロントホックのブラが流れるようにはずされ、次郎が涼子の乳首を味わい始めたとき、彼女の吐息とも取れるため息が口からもれた。その響きは薄暗く静かなマンションの玄関では十分に次郎の耳に届き、彼の欲情を一層かき立てるきっかけとしかならなかった。次郎は荒い息をはきながら自分のベルトをはずすためほんの僅か涼子の体から離れた。涼子はあらわにされた胸に残っている次郎の体温を逃さぬように両手で自分の胸を覆った。
「ホタルだ。こんな時期にめずらしい」
二人の空間を次郎の優しい声が包みこんだ。
「ほんとう」
次郎の声につられるように涼子は高鳴る鼓動を押さえながら答えたが、彼女の眼に映った自分の手にとまっているホタルは、涼子を現実に引き戻すには十分な色をしていた。季節外れのそのホタルは涼子の視線を感じてか、急にまばゆいばかりの光を点滅し始めた。
「明るいなぁ、君の顔がよく見える」
涼子には次郎の声が入ってこなかった。まばゆいホタルの足は赤く、涼子の手を懸命に引っ掻いている。涼子の鼓動は次第に激しくなりつつあった。甘い魅惑の響きから、急に足場を失った風の強い崖っプチに放り出された、そんな鼓動が彼女を包みこんでいった。
「足先の赤い季節外れのホタル」
玄関の鏡から声がした。
「それも人間のときの記憶を一つ残らず持っている」
「何があったの」
「バーで男と寝た。5年後に抱かれるはずの男と」
「マスター?」
「そう、俺の昔のダチ」
「だって、時期が早まったにしても抱かれたんなら次も人間でしょう」
「あいつはまだ抱きたくなかったのさ」
「そんな。時期も早まってその上彼女から抱いたって言うの」
「心の片隅のほんのわずかな葛藤が、彼女を主体にしちまったって事。予定よりも早いからバランスがとれずにホタルにドロンパってわけ」
「、、、」
「次郎の場合は来世がどちらに転ぼうと、有効期限内だから、クリスマスまでは現世を維持できるさ」
「もう、判ったから行ってよ。そんなこと見たくも聞きたくもなかったわよ」
鏡は何も映さなくなり、涼子の手には、赤い足で引っ掻き傷をつけ、小さい口で噛み跡を残そうとする懸命な美穂が存在した。
「ホタルの明かりで浮かび上がる君の顔も素敵だね」
スボンを半分降ろし、涼子のパンティをずらしながら次郎がささやいた。何も知らない次郎。虫になってまで次郎を好きな美穂。
「次郎さん、美穂さんのことはいいの? 私を抱いてもいいの?」
涼子をあらわにしようとする次郎の手を遮り、はっきりした言い回しでたずねた。次郎は突然のみずいりに涼子を見つめなおした。
「美穂って、誰のこと」
「会社の、、、あなたの、、、彼女、、、」
ー忘れてる、記憶が消えてるんだ
「何言ってるんだ、おまえ。入社してからずっと俺達こういう関係じゃないか。浮気はないぜ」
そう言うと次郎は涼子の手にとまっているホタルを軽く払いのけた。
「ホタルは端の方で光ってりゃいいんだ。人間様の営みの邪魔をするなよ」
「どうして彼女を邪険にするの。あなたのことを愛してるのよ」
「何言ってるの、ただのホタルだぜ」
次郎は壁にとまって弱々しく光っているホタルに向かって、脱いだジャケットを投げ棄てた。
「きゃぁ」
びっくりした涼子の口を次郎は自分の口でふさぎ、先程までのロマンチックな愛撫とは程遠い、ただの身体だけを目的とした荒々しさで涼子の服を脱がせにかかった。
「やめてよ」
抵抗する涼子に次郎は有無を言わせず覆いかぶさってくる。涼子が抵抗すれば抵抗するほど次郎は荒々しくなり、彼女の手にはおえなくなってきた。
「痛っ、なんだ、これはぁ」
次郎の顔の周りをホタルが飛んでいる。次郎の顔にぶつかりながら明かりを発する美穂が涼子の眼に入った。浮気を見つけるたびに次郎の胸を泣きながら叩いた美穂が想像できた。どんなに浮気をされても次郎のことが好きだった美穂。給湯室での涼子への突っかかりはそんな美穂の事前策だったのかもしれない。もう次郎に浮気をさせないで、私がいるんだから。涼子の今朝の記憶が美穂の悲痛な叫びとなり飛び回るホタルと重なった。涼子は涙が出て来た。何故だろう。ただ涙が彼女の耳たぶまでをも濡らした。次郎を泣きながら叩く美穂。涼子にはホタルがいとおしく感じた。
「ふふっ。つかまえたぜ」
信じられなかった。涼子は信じたくなかった。次郎は自分にぶつかってくるホタルを捕まえると軽く握り潰してしまったのだ。ブチッ。開かれた彼の掌にはつぶれたホタルがいた。もはや光ることも、引っ掻くことも、ましてや次郎のことを想う事もできなくなった、哀れなつぶれたホタルが玄関に捨てられた。せいせいした顔の次郎は手についたホタルの体液をワイシャツに擦りつけてぬぎとった。その顔はますます狂暴になり、舌なめずりをしているようにさえ見えた。
「殺す必要はないでしょ」
「虫けらだぜ、何、興奮してんのさ」
次郎は言うが早いか、押さえつけた涼子を逃がしはしなかった。
「あぁ、、、」
涼子が彼のベッドで目を覚ましたとき、次郎はまだ夢の中だった。ゆっくりと次郎の唇に自分の唇を重ねると、涼子は身につけているものを静かに脱ぎはじめた。まだ時計は6時をさしている。涼子は肌寒さをおぼえ、ぶるっ、身震いをした。
「おはよう。今朝は寒いね」
「どうしたんだ、服なんか脱いで」
次郎はちょっと驚いている。
「夕べ、泊まったのか」
「黙ってて、ねっ。今朝は特別に、私があなたを抱いてあげる。服も脱がせてあげる」
「夕べ何が」
「飲みすぎてたのよ。今朝は私に任せて」
もう一度、そっとキスをし、涼子は次郎を抱き始めた。次郎は涼子の抱擁に身を任せ、溶けいる感触を下半身に、甘く流れる幻想を大脳に感じ、涼子の世界に吸い込まれていった。
涼子の中で漂いながら、次郎はホタルのことを考えていた。ホタルは女性に姿を変え、次郎に何かを伝えようとしている。見覚えのない女性だ。彼女の声は聞こえない。口は動いているのだが声が出ているのかも判らない。女性は泣きながら次郎に触れようと、次郎を抱きしめようとする。懸命に次郎に届こうとする。涼子の中で次郎は涙を流している自分に気づいた。彼女を受け止めるんだ、そう思い女性に手を伸ばした。次郎の指がやっと彼女に触れたとき、彼女は弾け飛び次郎の目の前から消えた。放心する次郎の手にはつぶれたホタルが惨めに張りついていた。
我に帰った次郎の上には、うっすらと汗をかき高揚した涼子がいた。
ーこの子じゃない、違う、誰だったんだ
「思い出せないわよ」
ー俺が考えてることが判るのか
「どこまでかしら、次郎が覚えてるのは。ホタルを殺したのは覚えてる?」
首を振る次郎。
ー手に張りついたホタルの死骸は夢じゃないのか
「やっぱり飲みすぎだったのよ。夕べ、私を抱けないんだから」
「ホタルを殺したのか」
「虫けらは邪魔だって言ってね、ちょっとひどいよね」
「そうだな、酔っ払ってたんだよ、でも」
視線を天井に向け、次郎は言葉を続けた。
「そのホタルが何か俺に伝えようとしてたんだよな、そんな気がするんだ」
涼子に抱かれているときにそんな夢を見たとは口にしなかったが、涼子には判っていた。ただ、それはそれでいい。私はこれで消滅することもなければ、この人の来世もまた人間になるのだから。美穂の記憶がなかろうと、どうだろうと、次郎のこの世ももう残り僅か。涼子はとにかく間に合ったのだ。彼女が次郎を抱いた事は変えようがない。
「次郎は生まれ変わるとしたら、次もまた人間がいい?」
ベッドサイドで髪を束ねながら涼子は次郎にたずねた。しかし、聞かなければよかったとすぐに後悔した。よかれとおもって人間を選んであげた涼子。虫に生まれて来たんじゃ、いつ何時、子供に捉えられ殺されるか知れない、それじゃ、次郎がかわいそう。涼子だけのわがままかもしれない。これもまた運命なのかしら。涼子は次郎の答えを聞くのが恐くなった。
「なぁ、輪廻教の教祖様なんて言われたことない?」
美穂と同じ事を口にする次郎がそこにいた。
次郎は会社に行き、涼子は今日は休むことにした。次郎が部屋を出た後、彼女はシャワーを浴び彼のベッドに再びもぐりこんだ。
ー私はこれで消滅しない。次郎も人間で戻ってこれる
ー本当にそれが次郎のためになったのか
ーなったわよ。人間を捨てられる人間なんていないわ。結局自分等が一番偉いと思ってるのよ
ーそうは思わない人間も存在しないか
ー知ってるでしょ。酔っていたとはいえ、彼はホタルを殺したのよ。人間が一番偉いと潜在的に考えてるわ。人は皆そうなのよ
自問自答の中、涼子は心に残るわだかまりを感じつつ、掛け布団を頭までかぶった。羽毛布団の暖かさが彼女に多少なりとも安らぎを与え、次第に眠りについていった。
涼子は夢の中で会社にいる次郎を見はじめる。
「おはようございます」
「おはよう。あれ、君いつからここの配属になったの」
「何寝ぼけてるんですか、夜遊びがすぎますよ」
「君の名前は?」
「またぁ、そうやって、私を引っ掛けようってんですか」
胸のネームプレートに彼女の名前があった。安達美穂。
ー急に本当の美穂がいなくなって、代役が存在してるんだ
涼子は夢に理由をつけた。
「美穂ちゃんさぁ、以前俺達は恋人同士だったかなぁ」
「朝から本当に大丈夫ですか。涼子さんに言いつけますよ。あれ、今日、彼女は?」
「寝てるんじゃないの、夕べまた遅かったから」
「遅くさせたのは宮下さんでしょ」
「それより美穂ちゃん、ホタル好き?」
「好きですけど、何か?」
「いや、好きなら好きでいいんだ。ただ俺の恋人は以前ホタルだったような気がしてさ」
「涼子さんが」
「いや、逆かなぁ。恋人がホタルになったのかなぁ」
「また違う女性のこと考えているでしょ。涼子さんに言いつけてやろっ」
そう言うと会話をしていた二人は寝ている涼子に視線を移した。
ーそこで寝ているおまえは誰なんだ、どうして私が美穂の代役なのよ、俺をどうする気だ、美穂の代役も疲れるわ
涼子が目覚めると、薄暗い部屋の窓際に茶髪の男が立っていた。
「うなされっぱなしだな」
うなじ、それに胸がじっとりと濡れている。
「夢よ」
「そうかな」
「私はもう消滅しないのよ、夢が夢じゃなくても関係ないわ」
「次郎はまた美穂と関係を持っている、夕べ彼が帰ってこなかったのはそのせいさ」
「夕べは私とすごしたのよ」
「あれから二日経ってる、今日はクリスマスだ」
「ずっと寝てたの?」
「流れがおかしい。次郎が今夜8時、車に跳ねられるのを一緒に見届けることにしよう」
涼子は次郎を呼び出すメモを残し、男と部屋を後にした。
「あいつはおまえの残したメモなんて読みゃしないさ」
「えっ」
「おまえが抱いたんなら、運命がこのウィンドーの向こうで次郎を連れ去るはずだ」
けやき通りに面したレストランで、涼子と茶髪の男は注文したコーヒーなど口もつけず道行く人を見ていた。通りはイルミネーションのついたけやきに照らし出され明るかった。皆、クリスマスの夜にふさわしく誰かと連れ添って歩いていた。
「次郎が輪廻に吸い込まれたら、私達も彼らに混じってクリスマスを楽しまない?」
男は涼子の不安げな誘いには答えず、コーヒーを一口すすった。
ー私はちゃんと次郎を抱いたわ。それも抱かれたんじゃなく、抱いたのよ
店内にはクリスマスソングが流れ、自分等の世界しか見えなくなっているカップルで満席になりつつあった。
「時間通り、次郎が現れたぞ」
男の指差す方向に次郎は立っていた。信号待ちをしているように見える。車は渋滞でほぼ止まっている。次郎は斜め後ろの女性と何やら話している。涼子はどうしてもその女性を思い出せない。
「あの女の子、誰」
「美穂だよ。夢で眼が合ってないか。ん、そろそろだな」
「渡るぞ」
「赤信号だよ。危ないよ」
美穂のその声に危機感はなかった。あえて止めるつもりはなく、次郎が渡るんだったら一緒に渡ってもいい、その程度の忠告だった。それほど通りは渋滞し、車は動いていなかった。
「よしっ」
美穂の手を引っ張り、次郎は止まっている車をすり抜け渡り始めた。その時だ。美穂の 眼に車の間をすり抜けてスピードを上げながら飛ばしてくるバイクの姿が映った。
「次郎っ、バイク、バイク」
「早く来いよ」
その次郎の視野に強烈な明かりとクラクションが入った。猫のように身動きのとれない次郎。
ーさようなら、次郎さん
涼しく響いてくるその声に、次郎の視線はウィンドー越しの涼子をとらえた。涼子は椅子に座ったまま右手をゆっくりと振っている。
「きゃぁっ」
通りに響く美穂の叫び。次郎の美穂を持つ手は強烈に弾かれ、指先は天をさす格好となる。強い衝撃が手、ひじ、肩に走る。次郎はその衝撃よりも、空中に舞う美穂の姿をスローモーションでとらえ血の気が引くのを感じた。美穂はゆっくりと空中を漂い、すり抜けて来た車のボンネットに頭から落ちて来る。バイクは転がり、涼子のウィンドー前でタイヤをからから回している。
「こんな代役なんて、、、」
抱きかかえられた美穂は次郎にゆっくりと右手を開いて見せた。そこには死んだホタルが包まれていた。
「みほ、美穂」
ホタルは風に溶け、宙に舞い、美穂の手は力なく次郎から離れた。
「美穂が次郎を押し、身代わりになったな」
通りは人垣であふれ、次郎の姿はつかめなくなっている。
「私は抱いたわよ、ちゃんと抱いたんだから。本当だよ」
「確かにおまえは次郎の身体を抱いた」
小刻みに肩を震わせている涼子を落ち着けようと、男は彼女の肩に手を触れた。
「ねぇ、私の肩が壊れる」
男は涼子の肩をつかめなかった。
「空気に同化し始めたな」
冷静な男の声が涼子を余計感情的にさせた。涙が顔を消していく。
「どうしてさ、ねぇ、どうして」
「次郎は本当におまえに抱かれたか。その時あいつの心はどこにあった。美穂の事を無意識にでも考えていなかったか、どうだ」
男も涼子ももはや手後れであることを悟っていた。
ーあんたともう一度腕を組んで歩きたかったんだ
涼子は完全に空気と同化した。
救急車に乗り込む次郎に男は背後から声をかけた。
「流れが変わった。次は50年後だ」
「なにっ?」
「せいぜい長生きしろよ。でも、その子は、、、」
動揺している次郎に男の言葉は聞こえていない。
男は救急車を見送り、一人でクリスマスの歩道を歩き始めた。歩道沿いのけやきは辺りが暗くなった分よけいにイルミネーションに包まれ、暖かそうに寄り添って歩く恋人達の心を優しくしていた。男には明かりのひとつひとつの輝きがホタルにも見てとれた。
ー私達も彼らに混じってクリスマスを楽しまない? もう一度、腕を組んで歩きたかったんだ
涼子の言葉が北風となり、男の腕をすり抜けていった。
ー涼子、次に人を抱くときは心だよ
イルミネーションの輝きが、幾千幾万のホタルの輝きとなり、男の髪を必要以上に茶色く浮き上がらせた。男には、それは美穂だけではなく、恋人と離れた人達の心の明かりに映った。涼子の心もそこから自分を包んでいるように。彼女の明かりが男をこころなしかゆっくり歩かせていた。
10. 簾
バスルームから出てくると南向きの部屋からビートルズが聞こえている。ぼくのお気に入りの写真の側に置いてあるラジオがビートルズの特集をうまくキャッチしているようだ。
冷やしておいたグラスとビールを冷蔵庫から取り出し、バスタオルを肩にかけたままベランダへと向かう。ベランダには昨夜から出しっぱなしにされているポトスが正午すぎの強い日差しを浴び、らしからぬ力強さを漂わせていた。
4人組が昨日を信じている詩を歌い始めた。
4人組の詩をBGMに、ビールを乾いた喉に流し込み、遠く丘の上にあるきみの家を眺めてみた。
丘は新緑におおわれている。
これから一月後に迎える真夏の奥深い緑ではなく、まだまだみずみずしい香りを遠くから眺めているものに与えてくれる。その丘の麓からきみの家に行く道すがらに垣根のようにしっかりと領域を隔てた自然の梢が生息している。結構長い道筋のように感じるが、途中所々で必ずと言っていいほど涼しい風が吹き上げてくる見晴らしのいいカーブがある。この途中の見晴らしのいいカーブと涼しい風に魅かれてきみはこの丘の上の一軒家を借りているんだと、以前きみはぼくにささやいた。
「ねぇ、私の丘の上の家が見えるところに新しい部屋を借りてみない?」
きみは東京湾の見渡せるぼくの部屋で突然新しい提案をしてきた。
今、住んでいる大好きな家を風景の一部に加えて、ぼくとの新しい生活を考えているのかな?と、ぼくを悩ませる。
「そうすれば家も近い。気が向いたときにあえるし、気まずくなってもすぐに丘の上に戻れるわ」
そんなことを言っていたきみ。きみは今ごろ夕方からのパーティの準備で大忙しなのだろう。
「えっ、どうして明日をあけてないの?」
きみが昨日真夜中にほろ酔い気分で電話をかけてきた。
「どうしてって? 何のことなんだい、明日ってさ」
いきなりの展開に受話器を持ち馴れない右手から仕事上で癖になっている左手に持ち替え、頭の中を整理してみる。
頭の中を超音速で一生懸命検索している間中、きみは自分が投げかけた詰問ともとれる質問をすっかり他人事とし、新しい話題を両手でも抱えきれないほど提供してくれた。
友だちが仕事を替えたこと、その仕事の担当が同棲相手の高校時代の友人であったこと。ラジオから早朝流れた話だと、ぼくの友人の結婚式の日は二十年前アームストロング船長が人類初めて月面に降り立った日であること。最近、会社の後輩が彼氏とよりを戻したこと。戻したのはいいのだけれど、せっかくの誕生日に彼の仕事が余りに忙しく結局たった一人で夜を過ごしているとのこと。その他諸々、ぼくにとってはどうでもいいような話題が、明日の予定の復習を、また明日の予定についての二人の話題の予習を十分にさせてくれた。にもかかわらず、きみがぼくと約束をしたという明日のパーティについては頭の角にさえまったく存在しなかった。
「本当に申し訳ないとは思うんだけどさ、明日のことについてきみと約束した覚えがまったくないんだ。だからといってほかの誰かと約束しているわけでもないんだけどね」
きみの沈黙。
「じゃあ、五十歩引いて約束はなかったとするわ。でもほかの誰かと約束がないんであれば、明日はあけといてもらえる?」
「約束はないんだけど、予定は残念ながらあるんだ」
「個人的な予定なんでしょう」
「そう、極めて個人的で、ほかの誰とも関係しない」
ぼくのわがまま、でもぼくなりの予定。
電話口での会話がそうなったとき、きみはもうすっかり酔いから覚め、ぼくにとって十分具合いの悪い解釈をしてくれた。
「そう、誰とも関係しないわけね」
きみは公衆電話に十円玉をいれるのを充分に諦めたようだった。受話器の向こうからの残り三分を知らせるブザーがぼくの耳に届いた。
三分間の沈黙の後、公衆電話はぼくらにやるせない気持ちを残したまま、今となっては懐かしい冷たい先進技術の機械に戻ってしまったようだ。
冷たい公衆電話が親切にもぼくらに相手を思いやる時間を与えてくれたとき、二人で日本海に旅行に行ったときのことを思い出した。そこできみは地方の友人に連絡をとろうと近くの公衆電話に入った。季節は夏。
「涼しげな公衆電話があるわ」
暑い夏、電話ボックスのドアを開けたままきみはそういいながら電話をかけはじめた。
「左の方もそうみたいだね」
道路をはさんで反対方向ばかり見て言っているきみに、左の公衆電話も教えてあげた。
「誰が考えたのかしら?」
「夏の知恵じゃないか」
そうやってぼくらから夏の蒸し暑い公衆電話ボックスの印象を取り除いてくれたドアには簾がかかっていた。もちろん通常のガラスの扉は外すされている。
「電話をするのが夏でも楽しくなりそうね」
季節前の強すぎる日差しからポトスを守ってあげようとベランダから奥の部屋へと向かう。奥の部屋の空調をプログラムエアーにセットし、もう一本のビールを冷蔵庫から取り出す。季節であろうがなかろうがこんなに暑い日にはビールが一番だ。
「ビールは飲み終わった?」
きみが電話をかけてきた。
「どうしたの? そろそろパーティに行くのかい?」
「ビール、飲んでたんでしょう?」
「今、2本目の栓を抜くところ」
そういって、ぼくは栓を抜き、一気に半分ほど飲み干した。
残り半分のビール瓶が、今日の暑さを真夏と勘違いさせるほど、水滴をつけ汗をかいている。本当に暑い。空調が感じられない。
「私、どこからかけてると思う」
いやに涼しそうな声だ。
「簾」
いたずらっぽくきみが言う。
「簾?」
「そう」
「簾のかかった、、、」
「うん、汗かいてビール飲んでないで、私と一緒にパーティいこっ。ここね、簾のかかった公衆電話があるんだよ。今から迎えに行くから、ね」
そう言うだけ言って、一方的に電話をきったきみはもうこっちへ向かっているのだろう。
受話器をおくと、ラジオの側に置いてあるきみが撮った電話ボックスの写真が涼しげに目にはいってきた。
「簾の電話ボックスか」
パーティーに着て行く服を気にしながら、ぼくは目一杯に汗をかいている瓶を手にとり、残りのビールを一気に飲み干した。
完