B.O.D.Y.
ISBN 978-1-4523-7538-0
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「B.O.D.Y.」
コールマンのガスバーナーが珈琲をいれるためのお湯を沸かすのを見ながら、祐二はジャケットを探った。携帯電話をポケットから取り出すと沈み行く太陽に 目を向けた。西の空は雲一つなくどこまでも澄んでいて、目の前の川面も夕日と一緒に眩いオレンジ色に染まるのは時間の問題に思えた。
—このコール で涼子がつかまれば間に合うな。
3回目の携帯の呼び出し音が祐二の耳に響く。
—あいつ、覚えてるかな、この場所。
5回目の呼 び出し音が祐二の視線を太陽と重なる遠くの観覧車へ移させる。
—留守電に切り替わらないってことは、いるのかな?
「、、、」
「あ、 涼子。祐二だけど、今、時間、大丈夫?」
「、、、」
「涼子、聞こえてる?」
「プープープー」
—おかしいな?番号を間違え たかな?
祐二は再度、今度はメモリーから呼び出した電話帳を念のため確認し、発信してみた。
祐二からの電話を取った彼女は携 帯を床に置いたまま、部屋の片隅に後ずさりしている涼子本人を見つめていた。涼子の携帯は床に置いたというよりは、放り出されたと言う方が正確なのかもし れない。
「イマノハダレ?」
たどたどしい日本語、話し方。涼子にはその彼女の言葉は口からもれる空気の音としか思えなかった。
「ユウジ、ダレ?」
ユウジ、ゆうじ、祐二、彼女の音が涼子の意識を反応させた。涼子をいくぶん正気に戻すきっかけになる音、単語、言葉、名前、祐 二。
—祐二からの電話だったんだ。
自分に向ってくる彼女よりも後ろに無造作に転がっている自分の携帯が涼子の目に入った。
—あ れじゃ、祐二がまた電話をかけてきても取れないよ。
気落ちする涼子の視界から携帯を遮るように、彼女は四つんばいで近づいている。全裸の彼女、 何ひとつ身にまとっていなく、涼子の思考能力に混乱を招かせる容姿。その彼女は涼子にさらにじりじりと近づいてくる。涼子は目と鼻の先の現実を認識できな いでいた。認める努力すら麻痺していた。
—どうして。なぜなの。
ついに彼女は両手で涼子の顔を覆うように包んだ。震える涼子の唇を自ら の唇でふさぎ、涼子が気が遠くなり始めると服を脱がしにかかった。涼子の震えの止まらない両手、両足での抵抗は何ら意味のないものだった。涼子の身体を覆 うものがなくなったとき、それまで以上に震える涼子の身体を彼女はやさしく、でも吸いつくように抱きしめた。その身体ははじめ水のように冷たく、次第に涼 子の体温と同程度に感じられるようになった。そのころには涼子の震えは収まったが、すでに抵抗する気力すらなくなっていた。
祐二の寝転がっている河原一面は燃えるようなオレンジ色に風景をかえ、彼の両眼に焼きついていた。携帯は脇に転がり、涼子の番号はさっき以来何度押し直 しても、いっさいつながらなかった。
「何なんだろうなぁ」
祐二は入れ終わった珈琲を口に運びながら、景色と一緒にオレンジに色を変えた 観覧車を遠くに見つめていた。
何故だか思い出せないけれど、祐二には観覧車にまつわる変な記憶が残っている。どこにもつなげることのできない記 憶。どうしても途中から視点が入れ替わってしまう記憶。祐二は遠くの観覧車を見つめながら、久しぶりに記憶の流れに思考をまかせてみた。
その観覧車の中には猫がいた。野良猫ではなく、当時、祐二の家で飼っていた猫。特に血統書とかついているわけでもなく、かといって頭の悪い猫でもなかっ た。必ず車をよけながら祐二について来た。信号機の色も理解しているのかと思わせるほどだった。祐二の足元にはその猫、それが祐二の家での定番となってい た。その日もきっと祐二について一緒に観覧車に乗り込んだのだろう。四人乗りの観覧車に祐二とその猫、名前はミーとつけていた。なぜ、あの日観覧車に乗っ ていたのだろう、それも幼い祐二だけで。猫はお供しているに過ぎない。観覧車は二人、正確にはひとりと一匹を乗せ、うららかな陽射しをうけながら、地平線 が見える位置までゆっくりと回転して上がっていった。
「ねぇ、ミー、宿題いっぱい出てるんだ」
幼い祐二は向かい側の日だまりとなってい るシートに丸くなっているミーを抱きかかえて、鼻と鼻とがくっつくくらい引き寄せ、話しかけた。
「ミー頭いいじゃん、代わりに宿題やってくんない かなぁ」
祐二の記憶はここで一瞬、途切れている。続きの記憶は幼い祐二のアップの表情からはじまる。驚いている祐二自身。ミーの姿は見えない。 横たわっている祐二。
「だめ、ミー、だめ」
祐二は目を覚ました。自分の息が荒くなっているのがわかった。
「なぜそんなに息が荒いの?」
うとうとしていた祐二の隣にはいつのまに か涼子が腰をおろしていた。手には祐二の珈琲カップを持っている。
「もらってるわよ」
「いつ来たんだ」
「夕日が少し残っている頃かな」
「よくわかったな、ここが」
「電話したでしょ」
「でもつながんなかったぜ」
「気持ちはつながっているのよ、きっ と」
涼子は祐二の頭を胸に包み込むよう抱きしめた。水のように冷たい体温の涼子。
「おいしい珈琲が入ったから呼んだの?」
「きれいな夕日のデザートつきでね。リバーサイドカフェにご招待ってわけさ」
「急な招待だね」
「妙にやさしいな」
「わたしはいつもあ なたにはやさしわよ」
その言葉とともに涼子の唇が祐二の次の言葉をふさいだ。
—いや、いつもよりずっとやさしいよ。でも、ちょっと違 う。
「あなたの部屋へ行きましょう。肌寒くなって来たわ」
「怒ってないのか?」
「何のこと?」
「昨日のことだよ。きみが 怒って帰っちゃったこと」
涼子は何のことを祐二が言っているのかわかないという表情を彼に向けた。祐二には瞬間そう思えた。
「怒ってないわよ」
右手で長い髪をかき上げる涼子がそこにいる。祐二はそんな涼子が何となく的を外しているような、違和感を感じた。
窓からの月明かりが涼子の長い髪の銀の雫を浮かび上がらせる。祐二の部屋で抱き合った二人。強く抱けば抱くほど、感じいれば感じいるほど、この夜の涼子はつかみ所もなく、汗にまみれても、涼しげな印象を祐二に与えた。涼子の魅力のひとつの黒髪はいつものようにしっとりとではなく、ありえないほどぐっしょりと濡れていた。
「ねぇ、猫みたいに丸くくるまってないで、こっちを向いてよ」
しばし涼子に背中を向けていた祐二は、その言葉に目を覚まし た。少しばかり眠っていたみたいだ。
「髪が汗で濡れてるね、風邪ひかないか」
そう言って祐二がさしだした右手を、涼子は自分の頬に持っ ていった。
「大丈夫よ、でももう少し祐二の体温で温めて欲しいわ」
朝になり、涼子の帰った祐二の部屋はなんとなく肌寒かった。彼女の髪の毛は最後まで乾くことなく、祐二の枕をしっとりとさせていた。
「今日、午後から友だちがわたしの部屋にくるの。また明日、連絡するから」
そう言って、涼子は帰っていった。
どうも涼子に何かが欠けている。よくわからないけれど。
祐二は頭の後ろに両手を組 み、ベッドに横たわったまま天井を見つめはじめた。天井の先には屋根があり、その先には空がある。窓から陽射しが差し込んでいるから今日も快晴になるだろう。きっと空は真っ青で、明るい雲がいくつかあるくらいだろう、それとも筋状の雲か。
「あの時も天気はよかったよなぁ」
昨日、久しぶりに思い出した観覧車の途切れた記憶をまた振り返ってみた。
どこでミーとはぐれたのだろう。遊園地から戻って来て、自宅の門の前で座り込んでいた幼い祐二。ミーを待っていたのだろうか。今となってはそこまで思い出すこともない。
「もう夕飯の時間よ」
ひざを抱えて座っている祐二に、買い物篭に野菜を一杯詰め込んだ母親が声をかけてきた。
「あれ、ミーちゃんは」
幼い祐二は何も口をきかず、首を横にふるだけだった。
「そう、はぐれちゃったのね」
母親は祐二の手を取り 門の前から立ち上がらせ、優しく頭を抱いた。
「あの子は賢いから大丈夫、すぐに戻ってくるわよ。祐ちゃんが元気にしてないと戻って来たときに一緒 に遊べないよ」
このときの母親は印象的な表情をした。ほんの一瞬の表情。不思議な顔。
「祐ちゃん、身体中、ミーの匂いでいっぱい。さっきまでミーとじゃれてたんでしょう、すごいわよ」
このとき祐二は何かをしゃべろうとしたが、うまく発声することができなかった。そんな記憶が祐 二に残っている。
母親は笑っていた。
「ちゃんと日本語をしゃべりなさい。猫みたいに喉で唸ってないで」
その日以来、祐二も母 親もミーを見かけることはなかった。
ベッドサイドにかざってあるミーと幼い祐二の写真。そこに映っている自分を見ると、祐二はとても懐 かしさを感じる。単に昔はよかったと懐かしむ、それとはまた違って感覚だった。いなくなったミーよりも自分の姿の方が懐かしい。その横に涼子の写真があ る。利き腕で髪をすくい上げる涼子。涼子の左手はいつものように黒髪をかきあげている。
「あれ?、、、これだ、うん」
祐二は昨日の涼子 のぎこちなさの原因のひとつをみつけたような気がした。黒髪をすくいあげる涼子の手。それが左右逆。祐二はいつも左手が髪をかき上げるわけでもないだろ う、と納得しようとしたが、なぜかしっくりとしない気持ちが心のどこかでわだかまった。
「利き腕って簡単に変えられるのかな」
祐二の部屋から自分の部屋に戻って来た涼子は、ベランダ側の窓に背を向け、部屋の片隅にぐったりとくずれ倒れているもうひとりの涼子を見つめていた。もう 一人の涼子から窓側の涼子は逆光線になり、彼女の表情を見ることは難しかった。もし、逆光線でなくとももうひとりの涼子からは彼女の表情は見ることはでき ないかもしれない。それほどもうひとりの涼子は衰弱していた。
「まだ、わたしに吸い取らせていないものがあるでしょう。これ以上、隠さないでよ。 そんな身体でさ」
窓側の涼子は利き腕の右手で髪をすくった。
もうひとりの涼子は力なく唇を震わせているだけだった。
ひざを 抱え、部屋の隅の涼子を見つめる涼子。この部屋には今、涼子が二人存在している。昨日、いや、おとといまではこの部屋には涼子はひとりだった。それは二人 の涼子とも知っている。一卵性双生児の姉妹が存在するわけでもない。生まれたときから涼子は両親の愛を独占していた。譲るべき人間は存在しなかった。それ は今でも変わらない。
「聞こえてるかどうかもわかんないけど」
窓際の涼子が部屋の隅の涼子に話しかけた。
「あなたがわたしの存 在を希望したのよ。希望したからわたしはここにいるの」
焦点が定まらず、半分白目をむいている涼子の状態にはお構いなしに、窓際の涼子は話を続けた。
「どうして祐二はいつもそうなの」
「だから、あやまってるだろう」
「いつも口だけじゃない」
「口だけじゃないよ」
確かに祐二は口だけじゃない。自分に非があると認めるときちんと謝り、非があるところを直そうと努力し、その努力はたいていの場合実っている。
ただ、祐二の場合は、常にそうであるが、言われないと自分の非がわからないのである。それもいい。涼子が言ってあげればいいことなんだから。しかし、付き合い出してずっとそれが続いている。
「あのとき、あの瞬間、あなた自身がわたしの存在を望んだのよ」
生命力のかけらも感じられな くなっている涼子の耳元で、もうひとりの涼子は言い聞かせるようにささやいた。
「いっつもじゃない。わたしに言われないとわからない。も うちょっと自分からどうにかしてよ」
祐二は涼子の剣幕に一瞬たじろいだが、すぐさま自分を擁護しようとするいくつもの単語で涼子に対抗した。
「そ んなにがなられても、もう、聞く耳は持たないんだから」
意外に涼子自身も興奮していた。興奮してもはじまらない。その興奮自体も祐二のせいだと 思うと馬鹿らしくもあった。落ち着こう、涼子はキッチンに足を向けるとコップに水を注ぎ一気に飲み干した。背中では祐二の捨て台詞と勢いよく閉まるドアの 音が聞こえた。
涼子はもう一杯コップに水を注ぎ、キッチンに差し込む陽射しにコップの水を透かしてみた。
「喧嘩なんてしないにこしたこ とはないのに、ね」
自分自身に話しかけると、ため息が一つこぼれた。
「もうひとり、仲直り専用のわたしがいればいいなぁ」
結局、祐二のことを心底嫌いになれない、祐二のことが大好きな涼子自身がそこにいた。
「もうひとりわたし」
「だからもう一人のあな たが生まれたのよ、あなた自身が希望したの」
もう一人の涼子が耳元で、ほくそ笑みながら、またささやいた。
「でもね、世の中そう甘くは ないわよね。あなたかわたし、きちんと存在できるのはひとりなのよ。しょうがないわよねぇ、こればっかりは」
祐二の出ていった部屋で涼子はしばらくコップの水越しに部屋を見渡した。
「あのテーブルでワインを飲んだわ、あの携帯に毎晩祐二の声が届くの よ、あそこには、ほら、二人の写真があるでしょ」
コップの水に話しかけるように、この部屋での祐二との思い出をひとつひとつ口にしてみた。
「何やってるのかしら」
涼子はがぶりをふった。
かぶりを振った勢いなのか、コップの水はこぼれんばかりに波を打ち、いくつかの水滴がコップを持つ涼子の利き手の左手を濡らした。
「まったく、ほんと、わたし何やってるのかしら、もう」
キッチンの床が濡れていないことを確認 すると、流し用のタオルで手を拭いた。コップはキッチンのテーブルの上。水は涼子の手を離れても、手を拭く時間が経過しても、揺れをやめようとはしなかっ た。涼子がタオルを元の位置に戻し、もう一度、部屋を見回した後に、コップに視線を戻したときには異変はすでに起こっていた。コップに視線を戻したのにはわけがあった。もちろん、喉を潤すために水を注いだのだから、水を飲むため。そしてもう一つ、カタカタという音が聞こえてきたからである。
テーブルの上では、コップが倒れようとしていた。地震でもない、涼子がテーブルにぶつかったわけでもない。コップが倒れようとしているから中の水が揺れている のか、中の水が揺れているからコップが倒れようとしているのか。涼子の目にはコップが踊っているように見え始めた。コップから目が外せない。得体の知れない好奇心が涼子を包む。背中に緊張が走る。胸が少ししめつけられる。涼子は視線をコップの高さに合わせると、コップが躍らされているようにも感じた。
「水があばれてる」
涼子の好奇心が結論を出した、そしてその言葉が口から出た瞬間、水はコップを跳ね除け、テーブル全体に広がった。コップは床に落 ち、割れることはなかったが、もはやるくるくると踊りを続けることもなかった。ただ、今までの惰性で壁まで転がっていった。
涼子は中腰のまま、 テーブルに広がった水から目が離せないでいた。
「これは水なの?」
涼子にそう言わせた水はテーブルの上でも徐々に波を打ち始めていた。 範囲を広げることもなく、こぼれたままの場所で波を高くしていった。嵐を向かえた海、海面、波、その天空に厚く広がる黒雲が涼子の思考にも現れた。一つの 波が1センチにもなろうとしたときであろうか、涼子は腰を伸ばしてテーブルから身を引いた。好奇心はすでに恐怖心に変わっていた。
「あんたの胸に飛びつくはずだったのにさ。いい感してるよね。結局あんたがテーブルからちょっと身を引いたばっかりに、わたしは着地に失敗したことに なったんだよ」
右手で黒髪をかきあげる涼子は、冷たい微笑みをうかべた。
「でもね、一気にわたしたちは入れ替わったほうがよかったのか もしれないね。ちゃんとあんたの胸に飛びつけてさえいれば、あんたもこんな苦しみなんてないのに。そう、あんたにとって恐怖が長引いてるだけなんだよ」
焦点も定まらず、震えるだけの自分の意思で動かすこともできない肉体の内部で、ほんの少し、本当にほんのちょっぴりの明かりしかない彼女の意識は、それで も抵抗しようとしていた。
—い、や、、、い、や。
「さぁ、そろそろ、終わりにしてくんないかな。残りの意識を開放してくれればいいのよ。 簡単でしょ。簡単なはずなんだから」
涼子は彼方に焦点が飛んでいる涼子の胸に濡れた手をゆっくりと押し当てた。そこは彼女が飛びつくはずだった 場所。彼女が、涼子の形を取る前、コップから弾けだしテーブルの上で波打ち勢いをつけ、涼子になろうとして飛びつこうとした場所。
「恐怖が長引く のはつらいはずよ。特に逃げ場のない恐怖はね。諦めるのが一番、諦めて開放すれば何も苦しむことはないんだから。大丈夫、誰にも知られずに、残りの人生、 ちゃんと引き受けてあげるからさ。あの祐二も含めてね」
涼子の利き腕、左手が反応した。わずか人差し指一本の、しかも数ミリの反応だが涼子の肉 体と意識がまだ完全に切り離されてないことの現れだった。しかし、そのことを認識するほどの涼子の意識はなかった。
利き腕の右手を涼子の豊満な 乳房の間に押し当てると、左手を涼子の後頭部にあてがい、彼女の焦点の定まらない顔を自分の方に向けた。
「これを最後にしようね。すぐ済むから さ。これであなたも解放されるのよ」
涼子は唇を強く重ね、右手で心を、唇から残りの意識を取り込み始めた。強く抱き寄せられた涼子の左手の人差 し指は小刻みに震えつづけることを止めなかった。
夕方になり陽射しが和らいでくると、祐二は自分のマンションを後にした。
—胸騒ぎがする、涼子に会わないと。
—今朝、涼子が隣にいなかった。今までではありえないことだ。
—利き腕を変えようとしている涼子も変だ。 あいつは父親譲りの左利きを自慢していたし。
—それに涼子はぼく以外の人を自分の部屋に呼ぶのは極力避けてきたはずだ。
—プライバシーと 友だち関係をも切り離す。それがぼくの知っている涼子だ。
—昨日の河原への現われ方といい、昨夜の乱れ方といい、今朝のもぬけのベッドといい、違 う。
—そう、利き腕さえも違うんだ。
祐二は次第に足早になっていく自分を感じていた。足早になり、涼子のことを思いながら、ふと、ミー のことがまた脳裏をよぎった。
「ミー、ミー」
祐二は足早に歩いていた。駅前の公園に行き、神社の境内を抜け、小学校のグランドまで足を延ばしていた。ミーがいなくなって二週 間が過ぎようとしている。探し猫の張り紙もした。
「母さんがミーの似顔絵を描いてあげたから、一緒に張りに行こう」
元気のなくなった祐 二を見かねて、母親が張り紙を作ってくれた。祐二は母親の手に連れられて町内に張り紙をした。
それでもミーの消息は分からずじまいで、気がつい たら今日は学校をさぼり朝からミーを探していた。そして、探す当てもなくなり、放課後のグランドに祐二は立っていた。祐二がグランドから体育倉庫の屋根に 登るとグランド、花壇、中庭が一望できた。
「ここならミーを見つけられる」
祐二は妙に安心するとゆっくりと学校の校庭を見回し始めた。 花壇ではひまわりが咲いている。中庭の向こうにはプールの角が見える。汗でぐっしょりとなったTシャツも一向に気にならなかった。
どのくらい倉 庫の上にいたのだろうか。頬に冷たいものを感じ、祐二は目を覚ました。
昨夜の涼子の濡れたまま乾かぬ冷たい黒髪が、幼いころ失踪した飼い猫のミーを思い出させたのか、それも、記憶の途切れまで。ここまで考え戻すこともなく、すっかり写真だけの存在となっていたミー。そう、涼子の濡れた髪 がミーのことを思い出させた。正確にはミーのことを思い出させるきっかけになった。すべては思い出せない。ぽっかりあいた記憶の隙間があることは感じてい た。でも、今までは無意識のうちにそこに触れようとはしなかったのだろう。それが今は違う。そしてそのきっかけが昨夜の涼子だ。いままでとどこか違う、右 利きの涼子だ。
軽く息を切らしている自分に気づいたときには、祐二は涼子のマンションのドアノブに手をかけていた。
「王子様っ て、ほんと、いいタイミングで現れるものなのね」
祐二が意を決して涼子のマンションのドアを開けると、右手で髪をかきあげる涼子とその傍らに涼 子より二回りほど小さい半透明のゼリー状の物体が床に転がっていた。祐二の両足はその部屋の雰囲気に押され、玄関より上に上がることをためらっている。
踏み込んじゃいけない。
—祐二の理性はとっさに判断した。
「全然、わかってないんだから」
—何のこと?
祐二は理解しよう と努力し始めた。でも、何に対して。
祐二の両足は理性よりも理解しようとする気持ちの方に従い、玄関を上がり部屋へ進んだ。
—忘れろ。 踏み込んじゃいけない。
—何を忘れるのさ?
—ミー、さがれ。進んじゃだめだ。
—ぼくをミーと呼ぶ、誰?
その間も両足は 涼子に近づいていった。
「あなたにはわたしがお似合いなのよ。かわいいかわいい祐二のミーちゃん」
祐二には涼子のその言葉は聞き流され た。それよりも涼子の横で床を濡らしている塊が震えているのに身震いを感じた。震える塊の中から、塊ではない塊になりきれていない突起物が全体の震えとは 別に痙攣しているように見えた。
「興味があるようね、何だと思う」
涼子は塊に近づくと突起物をつかんだ。すると塊全体はいっそう振るえ 始めた。
「祐二もさわっていいわよ。そうすれば少しは理解するかな」
—ゆうじ、ゆう、じ、なの?
—えっ?
—ゆう、じ、なんで、しょ。わか、る、わ。
—、、、
—わ、た、し、、もう、だめ、み たい、な、の。
—りょうこ。
—いま、まで、、、わが、ま、ま、ごめん、ね。あり、が、と、、、
突起物の痙攣は止み、祐 二が突起物から手を放すと、塊全体に吸収され、塊自体の震えも止まった。震えの止まったゼリー状の塊は次第に輝く透明な水となり床の上に水溜まりを作っ た。
「今のはなんだ」
祐二は不安から生じる苛立ちをあらわにした。
「この塊は何だったんだ」
床の上の水溜まりをさしながら、涼子に詰め寄った。涼子は高飛車な微笑みでそれに答えた。
「だから、この、」
指差す先の水溜まりはすでになく、目を凝らさない と解らないほどのしみが残っているだけになっていた。
「何のことかしらね」
涼子は右手でまた黒髪をかき上げた。
「涼子をどうし た」
「涼子はわたしよ。わたしが涼子」
「じゃあ、ここにあった塊は何だったと言うんだ。あれが涼子だよ。形は違ってもあれがぼくの知って いる涼子だ」
涼子が髪をすくった。
「涼子の真似をしてもだめだよ。彼女は、本物の涼子は左利きなんだから」
興奮を押さえ、相 手の弱点を指摘したつもりの祐二に、涼子はほくそ笑んでいた。
「そんなのに気づいて、気づいたとしても疑っているのは祐二だけよ。みんなそんなこ と気にも留めないで、時がたてば、涼子は右利きだったんだ、って思うようになるものなの」
「それにね、もっと言ってしまえば、ほくろの位置なんか も全然逆よ。変えようもないほくろの位置がね。こっちの方が問題だと思うけど。でも、誰も気になんかしない。そんなものなのよ」
祐二は涼子の右 腿のほくろを思い出した。確かに左足を上に組んでいる目の前の涼子の太股にそれと同じほくろが見える。左腿にはほくろなんてなかった。
「そう、言 われてやっと気づく程度なのよ。言われなければ、気づいても誰でも知らず知らずに自分の方の過去の記憶を修正しちゃうのよ。そうね、いい例が祐二の家族の 人たち、とりわけ、お母さんかしら」
—お袋がなんだって言うんだ。
「そして、極め付けはあなた、祐二自身よ」
祐二は一瞬虚を衝 かれた。
—今、この涼子は何て言った。ぼく自身。
足下で大地が揺れる気がした。自分が雲の上にでも立っているような気もした。握力も抜 けていくような。
「見事よねぇ、飼い主の体をコピーしたにしちゃ。自分の記憶まで書き換えちゃうなんてね。よほど用心深かったのかしら、ねぇ、 ミーちゃん」
白い天井、淡いブルーのカーテン、部屋の奥まで射し込むオレンジ色の斜光。静かに揺れるカーテン、油蝉の泣き声。カーテンの合間か ら見える夕立前の雷雲。
あれも夏。
祐二は倉庫の屋根でいつしか寝入っていた。Tシャツも汗を吸い尽くし、夕方のそよ風が友だ ちのミーを捜しつかれた祐二をなぐさめていた。そよ風が吹きすぎると上空の入道雲は少年めがけて雨粒を投げつけてきた。頬に痛く冷たいものを感じ、祐二は 目を覚ました。
自宅にかけ戻ったずぶ濡れの祐二が、縁側でバスタオルに包まれながら落雷を見ていると、奥の部屋から母親の声がした。楽しそうに 祐二を呼んでいる。
「祐ちゃん、ミーが見つかったわよ」
「ほら、ミーでしょ。夕立前にね、玄関の軒下に丸くなってたのよ。賢いわねぇ、 ちゃんと戻ってくるなんて」
柄がちょっと違うと祐二は思った。
「ミー、なの」
それに一回り小さい気もした。
「探し猫 のポスター、明日はがしに行きましょうね」
新しいミーは母親の足元でじゃれている。
—ミーはそんな甘えた声で鳴かない。
そし てママのミーは仲良しだったぼくにすり寄ったりもしなかった。
「ほら、お久しぶりの対面、祐ちゃんですよぉ」
抱きかかえ新しいミーを祐 二に渡そうとする母親。新しいミーは祐二に抱えられたかと思うと、するりと腕を抜け、ふたたび母親の足元に体をすり寄せる。
「あれ、ミーは恥ずかしいのかなぁ」
—どんな時でもミーはね、ぼくからから離れなかったんだよ。
—ママはミ—だと信じているの?
「祐ちゃん、ミーも疲 れているのかしらね」
新しいミーは母親と一緒に奥の部屋にさがり、祐二は縁側でひとりひざを抱え、雨上がりの入道雲を見ていた。すると一瞬、ほ んとうにほんの一瞬、ひざを抱える右手が毛深くなり、その柄はミーそのものになった。驚くこともなく右手を見ていた祐二は、稲光で我に戻った。
—驚くほどのことはない。
自分自身納得していると、傍らに新しいミーを抱えた母親が驚愕の表情で立っていた。新しいミーは母親の腕の中で威嚇の喉 を鳴らしている。
「祐ちゃん、右手を見せて」
母親は恐る恐る祐二に話しかけた。祐二は何のことか分からぬ表情で母親にすっかり日焼けを している右腕を突き出す。
「何かついてるの?」
母親はすべてを払拭するかのように首を横にふるのみだった。
白い天井、ブルーのカーテン、オレンジ色の夕日。蝉の鳴き声、入道雲、夕立はもうすぐ。祐二は今、ベッドで目覚め、マンションの白い天井を見ながら昔のことを思 い出していた。思い出すのは、ミーと母親と幼い自分の記憶。今思い出してみると奇妙な記憶だった。
夏も終盤になり、朝夕の風がとき折り肌寒く感じるころ、祐二は夏休みとして田舎に帰ることを決心していた。
この頃には涼子は以前の涼子ではな く、すでに新しい涼子が周りの友だちに溶け込んでいた。戸惑いがあったのは、ゼリー状の涼子を目の当たりにした祐二だけに思えた。確かに涼子が自信たっぷ りに言っていたように、誰一人、右利きの涼子ましてや腿のほくろなど、気にも留めなかった。周りのみんながあえて気にしているとすれば、それは涼子と祐二 の関係だった。
「喧嘩でもしてるのぉ」
「そんなことないよ、ちょっとだけ祐二が最近冷たいだけ」
「そうなの祐二」
「い、 いや、、、最近の涼子にとまどっているだけだよ」
「変なの?わかんないなぁ。涼子はなんにも変わってないよ」
「うん」
「祐二がそ んなんだったら、俺が涼子にアタックしてもいいわけ」
曖昧なまま会話を続ける祐二。何も気づかない友人たち。そして、そんな祐二を見ながら勝ち 誇ったような表情を裏に隠して微笑む涼子。
「でもさ、最近涼子はやたらと活動的になったと思わない。夏前まではさ、おしとやかな印象強かったじゃ ん」
祐二のささやかな意思表示。無駄な抵抗。
「それってぇ、ふつう、性格が明るくなってよかったって言うんだよ。社交的になったって言 うか。いいことだよ」
みんな、新しい涼子の味方。
涼子が覗き込みながら祐二に言う。
「夏暑かったから、祐二、疲れてるんだ よ」
—まだ納得してないようね。あきらめてないって言うのかしら。
「夏休みもまだとってないし」
—しばらくいなくなったらどう。 めざわりなのよ。
「田舎にでもちょっと帰ってきたら」
—わたし、猫は嫌いなの。
みんなには決してみせない新しい涼子の高飛車な 目つきもさることながら、祐二は自分とミーの記憶もたどってみたい強い欲望にかられはじめていた。
ミーと自分、新しいミー、母親。
そして、祐二は夏休みをとって帰郷することを決めた。
実家に戻ってみると、母親は祐二の部屋にいた。父親の話だとここ二週間は祐二の部屋 にこもりっきりだと言う。自分の部屋に行く前に父親と一言、二言言葉を交わした。
「ぼくの部屋に何があるの」
父親は困り果てた顔つきで 答えてくれた。
「何があるって言うわけじゃない。いるのさ。大往生寸前のミーがね」
祐二は驚いた。ミーがまだ生きていた、母親のミーで はあるが、ミーと呼ばれている猫には違いない。そのミーがまだいた。幼いころに母親がミーだと言って連れてきた小猫。母親にばっかりじゃれていたミー。
「な んでぼくの部屋なんだ、お袋の部屋もあるだろ。もともとお袋の部屋が住処なんだからさ」
「なんで?と言われてもなぁ。こればっかりは解らないよ。 単にお前が上京してからはあいつの部屋ではなく、ずっとお前の部屋に住みついてたからな」
祐二は階段を上りながら、親父の言葉に考えを巡らせて いた。
—なんでぼくの部屋なんだ。ぼくが上京してからぼくの部屋。ずっとぼくの部屋。
廊下の一番奥の突き当たりの部屋が祐二の部屋だっ た。それは変わっていない。階段を上ったところで祐二は立ち止まった。何があの部屋で待っているのだろう。自分の存在が恐かった。あの涼子は涼子の部屋で 言った。祐二の覚えている、彼女との二人っきりの最後の台詞。
「よほど用心深かったのかしら、ねぇ、ミーちゃん」
あいつはぼくのことを そう呼んだ。ミーちゃん。観覧車でのミーとの記憶。そのあとの断片的な記憶、祐二は混乱していた。
祐二の部屋のドアには猫の出入り用の小さな出入り窓が新たについていた。
—最近つけたんじゃないな、これは。上京した後、きっとミーのために付 けたんだ。どうしてミーはそれほどぼくの部屋にこだわったのかな。
祐二は自分では回答の出せない問いかけで頭が一杯になった。
祐二が この家にいるときはミーは決してこの部屋には近づかなかった。以前のミーとはそこからして完全に違っている。出入り窓があったとしても通ることはなかった だろう。
そのドアが静かに開いた。
「やっぱり戻ってきたのね」
そこには母親が立っていた。
—すこし痩せたのかな。色 も白い。
それが祐二の第一印象だった。
「夏休みでね」
「うぅん、わかっているわ」
「なんのこと」
「母さんは ね、何も言わないから」
母親はドアを開けたまま廊下まで出てくると、祐二を見、部屋に視線を移し、また祐二に振り返った。
「中であなた が待ってるわ。お入りなさい。母さんはもう疲れたから自分の部屋に戻ってる」
母親がすれ違ったとき彼女の疲労が空気伝いに祐二に伝わってきた。 疲労と言い切るにはあまりにも重い空気だった。
祐二は母親が開けてくれたドアからそっと中を覗いてみた。窓際の自分のベッドにふくらみが見て取 れた。
—きっとそこにお袋のミーはいるんだ。
そこにいることがわかれば何ら臆病になる必要はない。
祐二は自分に言い聞かせな がら、かつては自分の安住の地であったベッドに足を運んだ。この時の祐二はかわいい小猫のままのミーを想像していた。
窓際のベッドに歩 み寄って行くと、祐二はその周りが懐かしい空気であふれていることに気がついた。空気の香りが、空気の肌触りが、空気の濃度がすべて、祐二には懐かしかっ た。
「ミー」
祐二は、何も怖がっていない優しい声になっている自分を感じた。
「やっと来たね」
ベッドのふくらみから ミーの声が聞こえた、そう感じた。
「うん、気になって戻ってきたんだ」
「でも、会えると思ってた?」
「いや、意外だったよ。思い 出をひも解こうとだけ思ってたからね」
ふくらみが動く。そのとき、祐二は一瞬、身が固まる思いがした。
「こんなにミーが長寿だとは正 直、驚いているよ」
ミーは動きを止めた。ふくらみはそのままの形で固まっている。
「ミー、姿を見せてよ」
身構えている。ふく らみの形が変わった。
祐二は手元にあった椅子をベッドサイドに引き寄せ腰を下ろした。ミーのふくらみから緊張の糸が消えたのがわかった。
「長 生きの理由を考えたよ。そしてどこかできみがぼくを生かしていると思うようになった。きみだけじゃなくぼく自身もそうしたくなった」
「ぼくがミー を?」
「正確にはミーがぼくをだ。祐二の体で生きているミーが、ミーの体にいるぼくをだ」
「祐二の体で生きているミー?ぼくのこと?」
「そ う、人の体を持った猫」
漠然としていたものが少しずつ晴れてくる。でも、祐二は晴れてもらいたくない気持ちも強く感じていた。ここまででこの部 屋を出ればいい。何もなかったことにすればいい。そんな思いが祐二を包み込む。
「あのとき時間がなくてコピーできなかったぼくの、祐二の知識を取 りに来たんだろう。完全な祐二になるためにね」
わかっていたことかもしれない。ただ、自分がもともと人間ではなかったことを認めたくなかっただ けなのかもしれない。認めると自分が自分でなくなる。そんな恐怖から逃げていただけかもしれない。でも、こうして立っているぼくは人ではないのか。
祐二は自分が何をすればよいのか、分からなくなってきていた。
「わからないよっ」
祐二は胸が苦しくなる恐怖を覚え、その恐怖を払拭する かのようにミーにかかっている掛布団を力任せに取り除いた。
しかし、そこにミーはいなかった。
敷布団に窪みはある。ミーの気配も残っている。でもミーそのものは祐二の目には映らない。
「いるん だろ、ミー」
「いるよ」
「からだは」
「すでに朽ちてるよ」
「なんで成仏しない。どうしていなくならない」
「きみ に会う前に成仏したら、一生きみはぼくになれない」
「ほんとにぼくはミーなの」
「そうさ。だってきみにはぼくと会う以前の、ここにもらわ れてくる以前のこの家族の記憶はないだろう」
祐二が触れるのを避けてきた自分の記憶。観覧車以前の完全な思い出。家族旅行の思い出。アルバムに は残っているがどうしても思い出せない記憶。でも、ミーとの思い出、それだけは祐二には鮮明に残っていた。
「そんな中途半端な、不完全な祐二を残 してこの世界からは去れないよ」
「ぼくがもともとミーなのは、誰が知ってるんだ。お袋は知ってるのかい」
「あぁ、お袋はミーがいなくなっ たときから知っている。わかってしまうのは仕方がないじゃないか。ミーが関わっている記憶以外はきみにはないんだから。でもそれよりもお腹を痛めて生んだ 母親の直感だろうな」
「ほかには」
「きみは十分に順応性があったんじゃないのか。気づいているのはお袋だけだよ。気づいても半信半疑、そ こにミーが戻ってきた」
「でも微妙にミーとは違っていたよね」
「入れ替わりの影響だろう。祐二のもともとの剛毛もさらさら髪になってたし ね」
祐二は涼子を思い出した。涼子の利き腕。確かに今の涼子は左右が逆になっている。
「でも、そんなん誰も気にしないよ。はじめはあ れっ?って思ってもいつのまにか昔からそうだったと思うようになる。そんなもんさ」
涼子と同じことを言っている。
今の涼子も入れ替わ り。今のぼくも入れ替わり。
涼子は涼子のすべてを吸い尽くし、涼子の世界に違和感なくは入り込もうとしている。
ぼくはただ思い出せな い怖さで、かつての記憶に触れるのをずっと避けてきた。
祐二は整理しようと試みた。
親父はぼくを祐二だと疑わず、お袋はミーを見つけ てきてもぼくをやさしく育ててくれた。つらかったかもしれない。本当の子供は猫となり、拾われてきた猫がお腹を痛めた子供の肉体にとりついている。
「感 情が理解するまでにやっぱり大変だったよ」
「お袋のこと?」
毎晩のことだった。洗い物がすみ、家族全員が入浴をすませテレビ に夢中になっていると母親はミーと一緒に縁側に出ていた。
「ミー、あなたは祐ちゃんでしょ」
ミーは母親の腕の中でその度のどを鳴らして 耳をこすりつけていた。
「祐ちゃんがミーなのよね」
夜空を見上げる母親の頬には時折光るものがあった。
「でも、祐ちゃんは二つ に分かれたけれど、どっちもこうして今そばにいるのよね」
「お袋はお門違いの恨みをミーにもたなかった。ミーがぼくにとってとってもいい 友だちだってことを知ってたからね」
「でも」
「うん、母親としては耐え難いよね」
「ああ」
「その上、下手したら息子の死 に目に二度も遭遇するんだよ。間違いなく寿命の短いミーの肉体で一回はね」
「そしてすでに一回目は訪れたってわけか」
「そうとも言うし、 そうじゃないかもしれない」
ミーの肉体から解放された祐二の精神は、現在の不完全な祐二に過去の記憶を伝えるために意志の強さだけでこの世界に とどまっていた。宿題をやりたくなかったが為に飼猫と入れ替わってしまった祐二。何も宿題だけじゃない。その要素は随所にあったと元々の祐二は考えるよう になっていた。
「お袋にはぼくの姿が見えるらしい。見えるっていうよりも、姿を感じるのかな。でも、そろそろ限界だろう。親父はこの部屋には入り たがらないけどミーの実の姿をここのところ見てないからね。親父がひとことミーは死んだとお袋に言えばお袋の細いつっかえ棒も折れてなくなるだろう。その ことを想像したくない。お袋の取り乱すのを見たくないんだ。人に言われて気づくってそんな辛いものはないよ。まぁそれでなくても長生きし過ぎなんだけど ね」
祐二にもミーの姿は見えないが目の前に存在しているのは確かに感じている。この感覚に過去の視覚がだぶっているのか。祐二はお袋が哀れにも 感じられた。
「ぼくの存在をミーに託すよ。過去の記憶から今日までのこの家での記憶まで」
「そうすればお袋は」
「うん、息子の半 分を失うことなくミーの死を受け止められると思う」
「そしてぼくは順応してお袋の完全な息子になれるのか」
「たぶんね。ミーの肉体がなく なっている今となってはこれがベストの方法だろう」
祐二は思った。
ミーの中の祐二も本当は元の人間の肉体に戻りたかったのだろう。そ れはそうだろう。それが本来の姿だから。ミーの肉体がなくなってなかったら。老いぼれの肉体が、死期を目の前に控えた肉体が今ここにしがみつくように残っ ていたとしたら。ぼくはそんな先の見えすぎている肉体に戻らされるのか。
すでに肉体の存在しないミーが今の祐二の心の思いを聞き取り、すべてを 理解しているような、そんな笑顔が祐二をつつんだ。目の錯覚でもない、そのとき祐二には確かにミーが見えた。
「そんな都合のいいことは起きない よ。結局、試せなかったけどね。お願いは一度きりってわけだろう、ふつう。神様もそんな暇じゃない」
「ぼくの思っていることがわかるの」
「き みの忘れている猫の、いや、きっと動物の能力のひとつじゃないかな。気持ちが読める。コミュニケーションの手段だろう」
そして、ミーが動いた。
祐二の足元に擦り寄ってきた。
「きみが来てくれたんで安心したよ。もうこれ以上、気を張ってここに」
ミーの声が途切れた。いきなりテレ ビのスイッチを切ったような、そんな切れ方だった。フェードアウトではない。スパッと切れた。その瞬間から足元にも気配は感じない。祐二は心臓の鼓動が激 しくなるのを感じた。視線を部屋全体に広げるが、ミーの気配はない。ベッドの上にもない。祐二は不安になった。記憶をまだ受け取っていない、なのに。部屋 には呆然と立ち尽くす祐二だけが存在していた。
階段から足音が響いてくる。廊下をこの部屋に向かっているようだ。声も聞こえる。大声で説教しているのは父親。母親の返答は父親の声にかき消されて、祐 二には聞き取りづらい。
「いつまでミーの死骸を家の中に置いとくつもりだ」
「お前が不憫だから口にしないでおいたが、祐二が戻ってきたか らもう言ってもいいだろう」
「もうミーの死を受け入れて納得してもいいころだ」
二人の足音はドアの前で止まった。
「ミーは死ん でなんかいません。ミーは祐二なんです。祐二はわたしの子供です。子供がわたしを一人残して死ぬわけがないでしょう」
母親の絞り出すような鳴咽 がドア越しに響いた。
「祐二、入るぞ」
夫に腕をつかまれ、強引に連れてこられた母親が急に静かになった。親父はそんな彼女を怪 訝そうに見ながらも部屋中をとりわけベッドの周りに注意を注いでいた。
「ミーはどうした」
親父の疑いの声。何を疑っているのだろう。祐 二は不思議に思った。
「ミーの死骸はどうしたんだ」
祐二は母親の表情を確かめる。彼女の目には夫も祐二も映っていない。うつろな表情で 祐二の存在が消え失せていることを確信していた。
「どこにやったんだ」
祐二の方が尋ねたい気持ちだった。
—まだぼくは記憶を受 け取っていない。
「祐ちゃん、もう、あなた一人しかいないのね」
「入れ替わる前の記憶がまだなんだ」
祐二のからだを抱きしめに 母親が一歩一歩近づいてくる。
親父がお袋に向って何か言っている。何万光年も離れた星から届く声。祐二にも母親にも届かない。
「ミーが 死んだの。ミーがいなくなったの。誰もいままでそんなことは言わなかった。でも」
「でもさ、薄々知ってたんだろう。認めたくなかっただけなんだろ う」
「ミーが死んだの」
つっかえ棒のなくなった母親が祐二の体に触れてくる。
「あなたに会いたいなぁって。成長した息子に会い たいなぁって、思ったの」
祐二は、幼い少女との会話に似ているなぁ、と思った。
「そうしたら次の日ミーが動かなくなってて。冷たくなっ てて。今度はミーの中の祐二まで」
母親はミーの死を知っていた。自分のせいだと悩んでいたのか。祐二は母親を抱きしめた。震える母親を愛してい る気持ちを込めて抱きしめた。
「ミーは生きてる。ミーは生きてるってずっと自分に言い聞かせてたの」
祐二は思った。ミーの肉体が死んだ のはお袋とは関係ない、ただ偶然彼女のもうひとりの息子に会いたいという気持ちをもった日に重なっただけ。それよりもミーの精神の復活こそはお袋の愛情、 死んではいないと自分に言い聞かせた成果。そんなお袋を悲しませないために記憶をぼくに渡そうとした祐二の精神。ミーの、祐二の精神が存在できたのはお袋 のミーの死の否定なんだ。
「祐二、ミーの死骸はお前が片づけたのか」
ぼくの帰宅を機にミーの死をお袋に認識させようと決心した親父は きっと正しいのだろう。親父もきっかけを待っていたに過ぎない。それはぼく。祐二は父親を憎む気持ちはなかった。
しかし、すんでのタイミングが 祐二にとってもミーにとってもよくなかった。まさに記憶を受け取ろうとしていたとき。ただ歯がゆい思いが一瞬、ほんの一瞬、祐二の全身を包んだ。
とっさに、であろうか、母親は祐二を包むようにもう一度抱きしめた。祐二を一瞬でも支配した父親へのはがゆい感情をなだめるかのように、母親は祐二の耳元 でささやいた。
「生まれたままの姿で一生を過ごせるものなんていないのよ」
一呼吸置いた。
「みんなどこかで入れ替わってるんだ から。大多数が忘れているだけなんだから」
母親のその一言で、父親の執拗な問いかけが、祐二にははるか彼方に聞えてくる。母親のやさしい笑顔が 祐二の視界を覆う。左手に親父の服を着た見知らぬ誰かが立っている。目の前には和服に身を包んだ母親がいる。母親は母親のままで祐二をやさしい笑顔で包ん でいる。
祐二の記憶はここでとぎれた。
「祐ちゃん、祐ちゃん」
「祐ちゃん、朝ですよ、もうそろそろ起きなさい」
ドアが開き、割烹着姿の母親が祐二の部屋に入って来た。
祐二は視点の定まらぬまま、 薄目で天井を見ている。
「まだ、かなぁ」
母親の後ろには父親も立っている。
「昨日は帰宅そうそうばたばたしたからな」
「お 父さんがいけないんですよ。事情もよく飲み込めていない祐二を詰問するみたいに言うから」
「それはあれだ、俺はミーのことをはっきりさせたかった だけなんだ。お前にもそろそろわかってもらいたかったんだよ」
母親は一呼吸置き、祐二を見つめ直し、父親に言った。
「わかってますよ」
父親が先に祐二の部屋を出ていくと、母親は部屋の窓を開けレースのカーテンも開いた。午前中のちょっとだけ肌に涼しい風が部屋を通り抜けた。
祐 二の手を取る母親は昨日から気を失ったままの祐二に優しく話しかけ始めた。
「大丈夫よ、安心して。おかあさんはあなたを愛しています。忘れないで ね、わたしはあなたのたったひとりの母親ですからね」
天井を薄目で見ている祐二は心が温かいものに包まれ守られているのを感じていた。
− 起きなきゃ、元気なのを知らせなきゃ。
その祐二の感情に身体が言うことを聞かない。動かぬ体を持ったまま、祐二の感情はまた静かに沈んでいっ た。
祐二が床に臥せ、3日が経とうとしていた。
「そろそろ医者に見せたらどうだ」
「もう少し待ってください」
「手 後れになりはしないか」
「医者に変にいじられるのはいやです。もう少し」
「うぅん、今日一日様子を見てみよう。それでも目を覚まさなかっ たら、明日の朝には医者を呼ぶぞ。いいな」
そのころ、祐二が帰省してからまだ数日しか経っていないのに、涼子の周りでは妙なうわさが飛 び交い始めていた。
—ねぇ、涼子って最近あけっぴろげすぎない。
—そう、ちょっと前までのおしとやかさがないのよね。
—よぉ、お 前、涼子に誘われたんだって。
—変なんだよ、肌がしめっぽいんだよ。
—髪の毛なんてさ、いっつも濡れてる感じ。
—食事してるとこ なんてあんまり見たことないなぁ。
—水ばっかり飲むんだよね。
涼子の耳に入ってくる噂もあればそうでないものもある。それでも涼子自身 にとっては十分すぎるものだった。自分に素直に行動しているつもりの涼子。でも周りの反応は違っていた。
—微妙な外見の違いはごまかせても生活パ ターンはそうはいかないの?
—そんなに以前の涼子とは違うことをしているの?
—焦りがぼろを出しているかもしれない。
—確かに周 りのみんなはこんなに体全体が湿っぽくない。
—そんなに違うの?
—どうして避けるような目で見るの?
以前の涼子の染みを探すよ うに、涼子は知らず知らずのうちに床を触りつづけていた。窓側近くの床、今となっては染み一つない。見事に涼子はこの世界から消え失せた。跡形も残さず。 存在していた証しは現在の涼子だけ。
—わたしと入れ替わった涼子がこのあたりで吸い込まれていったはず。まだ何か涼子からの吸い取り忘れがあった のかしら。そんなはずはないわ。残らずわたしが受け取ったはず。わたしが涼子なんだから。
蛇口から水滴が落ちる音がする。目覚し時計が秒を刻ん でいる。普段なら聞えない音がやたらと耳に響いてくる。窓の外で子供が騒いでいる。車のクラクション。踏切りの遮断機。音が涼子を襲う、音の洪水に涼子の 心臓が弾けそうになる。
「祐二っ」
たまらず涼子が口にしたのはうっとうしいと感じていたはずの祐二の名前だった。わからなかった、なぜ 祐二なのか。どうして今、祐二の名前が無意識に口を衝いたのか。以前の涼子が祐二に頼れといっているのか。
でも、涼子にとって今はそんなことは どうでもよかった。現に心が祐二を必要としている、不安な状況が、不安な心が祐二を呼んでいる。
涼子はひざを抱えたまま部屋の隅で震えていた。 唇が震え、背中が振るえ、心が震えていた。
「祐二、はやく戻ってきてよ。はやく、ここに来てよ」
自分自身でも体が濡れているのを自覚し ている。
—汗をかいてるんじゃない。きっと少しずつ元に戻ろうとしているんだ。わたしは戻りたくない。戻らされているんだ。きっとそうだ。涼子が わたしの中に隠れている。涼子がわたしを水に戻そうとしている。いやぁ。もうわたしが涼子なんだから。
ひざを抱える涼子の周りは水をこぼしたよ うに濡れていた。
祐二は依然変わらぬまま天井を見ていた。視点は定まらない、ただ静かに祐二を思い出していた。窓の外から聴こえる季節最後の蝉の鳴き声も道行く人の声 も、祐二の耳には入らない。自分だけの世界で祐二を思い出していた。
ー結局祐二から昔の記憶はもらえなかったけど、それはそれでいいような気がす るな。
ー入れ替わったことを祐二は悔やんでなかったし、恨んでもいなかったし。
ーうん、お袋はすべてを理解した上でこのぼくを育ててくれ てたみたいだし。
ー祐二は祐二で、ぼくはぼくで、それなりに幸せにやってきたってことだ。
いろいろ思いを巡らした後、祐二はそう思える ようになった。自分は確かに祐二からも母親からも愛されていたと。それはミーの肉体が朽ち、祐二の精神が消えても変わることはないことだと信じた。
ー ぼくは祐二の希望でこの体と周りの人の愛情までをも手に入れることができたんだ。祐二が希望したから、希望して入れ替わった後もこの入れ替わりに関して恨 みなんて抱かなかったから。祐二の気持ちが環境をもぼくにとってプラスに影響したに違いない。
そこまで考えて祐二は、ふと涼子のことを思い出し た。
ー涼子も入れ替わりを希望したにはしたのだろう。だからこそ今の涼子が存在しているはずだし。でも消滅した涼子は最後まで希望を貫いたのか、 どうだろう。涼子はぼくみたいに瞬時に入れ替わることはできなかった。涼子の姿形が同時にふたり存在していた。どうして。涼子は最後まで涼子の意志のまま だった。床に吸い込まれるその瞬間まで。そうだ、きっと涼子は入れ替わりを希望した後に、入れ替わりが始まるとそのこと自体を拒否したんだ。最後の最後ま で拒否しながらいなくなったんだ。
祐二の体が小さく痙攣を起こした。
ーでも、もし拒否しつづける意識までも余すところなく今の涼子が吸 い取っていたら、彼女はどうなる。今の涼子が気づかないところで拒否する意識が増殖していったら。
強い衝撃が体を駆け抜ける。
ー今の涼 子も消滅する。
祐二の体は大きく波打ち、両目の焦点は天井に固定された。心臓は大きく鼓動し、両手のひらは汗でびっしょりと濡れていた。
ー 何か聞える。音が脳裏にぶつかっている。音が何度もぶつかってくる。優しい音、激しい音。開こう、音が聞えるようにゲートを開こう。
「祐 ちゃん、そろそろ起きよう。自分で起きようよう、祐ちゃん」
祐二が視点を天井から声のするほうに向けると、母親が祐二の腕をさすっていた。祐二 の痙攣など知らないように、ゆっくりと優しく一途にさすっていた。
優しい音、それは母親の心からでていた。
母親は視線に気づいたの か、半信半疑でゆっくりと祐二を見つめた。
祐二が無言で微笑む。
母親もそっと無言で微笑み返す。ただ違うのは、母親の目は涙にあふ れ、それは頬を濡らし、ひざをも濡らした。
ふたりはゆっくりと静かに、そして気持ちの限り抱き合った。
「おかあさんはね、あなたを愛し ていますよ。忘れないでね」
祐二の口は「ありがとう」と動いたが、震えて声にはならなかった。母親は何度も何度も頷いていた。
そのとき、もう一つのぶつかってくる声、激しい声が祐二の耳に届いた。
「祐二っ」
ー涼子の声だ。祐二の全身が震えた。
「あなたを 必要としている人がいるみたいね」
母親は祐二を腕から離しながら、言葉を続けた。
「行きなさい。行ってその人を安心させてあげなさい」
母親の優しい笑顔が祐二の緊張をわずかながら和らげてくれた。
「もう祐ちゃんは悩むことはないのよ。あなたとわたしは親子なんですもの。何があっ ても親子にはかわりないの。それだけは忘れないでね」
この女性が自分の母親でよかったと祐二は祐二に感謝していた。
翌朝早く、祐二は涼子のいる自分の街に戻ってきた。
次の休みには必ず帰省すると母親に告げ、父親にもその旨伝言を残し、実家を後にした。実家 を離れてこの街に戻るまで祐二の脳裏には消滅する涼子の姿が幾度となく思い出された。
あのときの涼子を救うことはできなかった。どんな形であれ 二度も涼子を失うのは嫌だ。涼子が自分から離れて行ったとしても、どうであれ、涼子の意識と涼子の姿をしたものをこの世界から消滅だけはさせたくない。祐 二はあせっていた。
しかし、この街に戻ってくると祐二には涼子のイメージが湧いてこなかった。実家で聞いたような激しい声が祐二にぶつかってこ ない、祐二に助けを求める強い意識がつかめない、存在のかけらすら感じない。祐二は喉に渇きを覚えながら足早に涼子のマンションに向かった。
「生 まれたままの姿で一生を過ごせるものなんていないのよ」
「みんなどこかで入れ替わってるんだから。大多数が忘れているだけなんだから」
「あ なたを必要としている人がいるみたいね」
「何があっても親子にはかわりないの」
母親の言葉が祐二の脳裏をよぎった。
そう、涼 子の入れ替わりも受け入れなくっちゃ。涼子がぼくを必要としてるんだ、涼子はまだぼくを必要としている。きっとぼくらの関係はまだ変わってないんだ、何が あってもぼくらの心に変わりはないんだ。言い聞かせるように祐二は足を速めた。
マンションの涼子の部屋の鍵は不用心にも開いていた。
以前の涼子ならこんなこともないだろう。でもこれが今の涼子なんだ。受け止めるんだ、存在している涼子自身を素直に受け止めるんだ。祐二は、そう自分に言 い聞かせ、液体となり床に吸い込まれていった涼子の残像を振り払い、奥の部屋に進んで行った。
「ゆうじ」
力のない声だった。その声はも はや声ではなく、意識に直接語りかけるように祐二に届いてきた。そして泣き出しそうな顔で祐二を見つめる涼子が部屋の片隅にいた。その場所は床に吸い込ま れていった涼子が最後にいたところ。まだ今の涼子は姿形を十分にとどめているとはいえ、吸い込まれていった涼子もこの過程を経たことが祐二には容易に想像 できた。姿をとどめず塊となった涼子の言葉が瞬時によみがえった。
「ゆうじ、ゆう、じ、なの?」
「ゆう、じ、なんで、しょ。わか、る、 わ」
「わ、た、し、、もう、だめ、みたい、な、の」
「いま、まで、、、わが、ま、ま、ごめん、ね。あり、が、と、、、」
—でも今 度は救うんだ。涼子をこの手で抱きしめるんだ。
「祐二、涼子がわたしの中にいる。わたしの中に潜んでる。わたしを水に戻そうと」
下唇を かむ涼子が両手を祐二に差し伸べてくる。震える肩、震える両手、おびえる涼子がここにいる。
「もう、わたしが、涼子なん、だから」
精一 杯の涼子。
祐二は滴るような水を体にまとった涼子を躊躇なく抱きしめると、言葉ではなく気持ちの奥底から涼子の心に語り掛けた。
—涼 子、お前はもう戻れないんだ。知ってるだろう。知ってて、自分の代わりをこの涼子が演じているのが許せないんだろう。でもね、この涼子を水に戻しても、も うきみは元には戻れないんだよ。きみの意識もこの涼子と一緒になくなるんだから。
「いやぁ、この体はわたしのよ。もうわたしのものなんだから。誰 にも渡さないんだから」
涼子が震える。祐二は声を出した。声を出して抱きしめている涼子に話しかけた。
「涼子、意識を支配しろよ。意識 ごとこの体を支配するんだ」
ー意識だけの涼子は体を自分以外の者に使われるのを拒んでいる。そして体を持つ涼子はもうひとつの意識にこの体を支配されるのを拒んでいる。ふたりは拒み あっている。結局、意識だけの涼子が体を滅ぼそうとしている。
祐二は抱きしめながら意識だけの涼子の抵抗を切り捨てることへの躊躇を覚えた。
ー彼女は正しいかもしれない。自分の意志で入れ替わりを希望し、そして再びそれを取りやめる。でも対象になった今の涼子はどうなる。つかの間の違う世界を経 験しただけか。そして望みもしないのに消滅する恐怖を味わうことになる。知らないなら知らないですむ消滅する恐怖。この涼子はふたりともその恐怖を味わう ことになる。
ー祐二、お前は誰を救おうとしているのか、どの涼子を救おうとしているのか、二人の涼子か、それとも以前の涼子を救えなかった自分を 救おうとしているだけじゃないのか、自分自身のためだけじゃないのか。
意識だけの涼子の気持ちが理解できたように思えるにつれ、祐二は悩んだ。
「わ たし、水にも戻れない」
「どうして水に戻るんだい」
「それを涼子が求めている。この体を彼女が欲しがってる。水がもともとのわたしなの。 そのくらい覚えているわ」
「ぼくにはミーだったときの記憶がないんだ」
「上手に入替わったのね」
「祐二が最後まで希望したみたい だからね」
「わたしたち涼子はだめだったみたい」
「救えないかな、救いたいんだ」
「わたし自身だった水がもうなくなっちゃってる から、ふたりとも元には戻れないのよ」
「共存は」
「うまくいくはずないもの。誰でも自分の体は一人で使いたいものよ」
水のように透明度を増す涼子、でも、床に吸い込まれることはない。
どこまで透明度をますのだろう。
どこまで姿を残すのだろう。
祐二の胸から離れ、壁に背もたれる涼子。
恐がっているのか、喜んでいるのか。
泣いているのか、微笑んでいるのか。
祐二が手 を差し伸べると、透明な涼子はゆっくりとした動きでその手を拒んだ。
ただ、うれしそうな目元で。
それだけははっきりと祐二にもわかっ た。
ーありがとう。
二人の涼子の声が祐二の耳にこだました。
ー涼子はうれしいよ、祐二。こんなになっても祐二は優しいんだも の。
祐二は首を横に振る、唇をかみしめながら首を振る。
どのくらい時間は経ったのだろうか。
オレンジ色の陽射しが 部屋中にあふれ、優しく涼子を包んでいる。
祐二はそのまま、透明になっていく涼子を見つめつづけた。
完