運命がくれた愛
ジェイン・ポーター 作
木内重子 訳
MISTAKEN FOR A MISTRESS
By JANE PORTER
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◇作者の横顔◇
ジェイン・ポーター
アメリカ、カリフォルニア州に生まれ、十代から二十代前半は海外で過ごす。イギリスに滞在中、ロマンス小説に出合い夢中になった。文学修士号を持ち、現在は教師をしている。夫と幼い二人の息子とともにシアトルに在住。
◇主要登場人物◇
エストレリャ・ガルバン………モデル。
アンドレ・モッシーモ…………エストレリャの元恋人。
カルロ・ガベリーニ……………投資銀行の社長。
ギャビー…………………………カルロの妹。
レミ………………………………カルロの友人。
ジョイ……………………………カルロの元恋人
1.
「何をしてほしいですって?」隠しきれない驚きに、エストレリャ・ガルバンの声はかすれた。今夜は、カンヌ国際映画祭の目玉である見本市のために祝賀レセプションが開かれていて、この会場に有力者たちが顔をそろえている。
「きみとなら楽しくやれると思ってね」
頬がかっと熱くなった。周囲に投資家たちが集まっているのもかまわず、彼女は無礼なイタリア人のまなざしを受けとめた。「声をかける相手をお間違えじゃないかしら」
男は片眉を上げた。他人の存在などまったく気にしていないようすだ。
今夜のレセプションは一般人の立ち入りを禁止した非公開のもので、財力やしかるべきコネを持つ者にだけ入場が許されている。このカンヌの見本市で、金が動き、映画が買われ、海外上映権が売られるのだ。この見本市こそが、エストレリャがカンヌにやってきた理由だった。
「きみは、モデルのエストレリャ・ガルバンだろう?」
エストレリャは首を絞められたような気がした。まともに息もできない。「申し訳ないけれど、今、取り引きをまとめようとしているところなんです」
男の冷たく輝く銀色の目が細められた。「それはぼくも同じだ」
投資家たちの一団から、きまりの悪そうな笑いと低いつぶやきがもれた。おもしろがっている人もいれば、気まずそうな人もいる。エストレリャは顔じゅう真っ赤になった。
イタリア男が神経を逆なでする笑みを浮かべて、先を続けた。「ぼくたちならお互いに楽しくやれると思うね。電話を待っているよ」
エストレリャは身を硬くしたが、手のなかに名刺を押しつけられてしまった。すぐに光沢のあるカードを返そうとする。「こんなもの、いりません」
「どうして?きみは楽しいことが好きそうだ。ぼくだって同じさ」
この男はなぜこんなことをするのだろう?何が目的なの?今夜のパーティーに招待されるために百本もの糸を引いたのに、釣りあげたのはこんなチャンスだけなのだろうか?持参した映画に興味を持ってもらおうと、投資家たちに働きかけた結果がこれ?二週間に及ぶ映画祭はもう半分終わったというのに、これまでのところ、彼女の企画を後援しようという人物はひとりも見つかっていなかった。エストレリャにとって、今はこの映画がすべてだった。子どもたちの将来がこの腕にかかっているのだ。
エストレリャは完璧な笑みを崩さないようにして、きっぱり言った。「信任票をくださって、どうも。でも、わたしはイタリアの男性にはあまり興味がないの」
その言葉は、まるで張りつめたバイオリンの弦をはじいたかのような影響をもたらした。男とのあいだに緊張が走り、空気が震動した。これほど強い刺激を体に覚えるのは、もう何年もなかったことだ。
「本当に?」男がからかうような口調できいた。
「ええ」エストレリャには男のすべてが感じられる気がした。彼の呼吸も、彼が頭のなかで考えをめぐらしていることも。強烈な感覚に揺さぶられ、彼女は心の内で震えた。
「それでも、最近まできみが付き合っていたのはイタリア人だ」
頬がますますほてった。エストレリャの異性関係について、この男が知っていても意外ではなかった。彼女はどこへ行っても、パパラッチにつきまとわれていたからだ。とくに今年の初め、イタリア人レーサーのアンドレ・モッシーモとデートしていたあいだは。
「“最近まで”という部分を強調したいわけね」エストレリャはほほえんで答えたが、目は怒りに燃えていた。
「そのとおり。アンドレがあの悲惨な事故に遭ったあと、きみはあいつを捨てただろう?」
このひと言が、各国からやってきた投資家たちの一団に威力を発揮したらしかった。経営幹部たちは、二人、三人と、去っていった。エストレリャは強いパニックに襲われた。彼らを失ってしまう。映画を売り込むチャンスを失ってしまう。みんなの前でこの男にこんなふうに恥をかかされては、まじめな題材の映画を持ってきているとは、だれも考えてくれないだろう。
「完璧だ」二人きりで取り残されると、イタリア男が言った。「これで、きみとぼくだけになった」
目がひりひりする。エストレリャは両手を握り締めて、男に押しつけられた名刺をくしゃくしゃに丸めた。世界じゅうに広めなければならないたいせつなドキュメンタリー映画があるのに、この男に笑い物にされたおかげで、後援者を見つけられなくなってしまった。
「よくもこんなことをしてくれたわね」成功の機会を失ったショックに打ちのめされて、息が詰まった。今夜にたくさんの望みをかけていたのに。今夜を心から待ち望んでいたのに。
男が黒いタキシードのパンツのポケットに両手を突っ込んだ。「何をしたって?」
しかし、カルロにはわかっていた。自分が何をしたかも、何をしようとしているかも。エストレリャに招待状を手配してやったのは彼だった。ミラノでもトップの人気を誇るモデルの彼女が、上流階級の者だけに許されたパーティーの招待状を入手するために動いていると聞いて、好奇心を覚えたのだ。
以前、エストレリャがその美しさを武器として利用するところを、実際に見たことがある。だから、彼女がどれほどずる賢くふるまえるかはわかっているつもりだ。アルゼンチン出身のこのモデルが、今度は何をもくろんでいるのか知りたい。なぜ、カンヌに来たのか?何を手に入れたがっているのか?もっと正確に言えば、だれを食い物にしようとしているのか?
「あんなふうに侮辱して」エストレリャが刺すような視線を放った。目は涙で潤んでいる。
みごとなものだ。そう認めないわけにはいかなかった。涙は本物に見える。彼女がアンドレに味わわせた苦悩を知らなければ、緑がかったはしばみ色の目に光る涙にだまされていたかもしれない。しかし、以前ぼくが付き合っていたジョイと同じで、エストレリャは人を操ることにかけては天下一品だ。こういう女はいつも何かを手に入れたがり、いつもだれかを新たな餌食にしたがるのだ。
「まあ、機嫌を直せよ」カルロは制服を着たウエイターを呼び、銀のトレイからシャンパンのグラスをふたつ取りあげた。「そんなに悲観することはない。夜はこれからだ。映画祭は始まったばかりだよ」
「あと一週間で終わってしまうわ」彼が差しだしたシャンパンを断って、エストレリャが言った。
「丸七日ある。きみのルックスなら、次の金づるを見つけるのは簡単だろう」
「金づるですって?」エストレリャの声が張りあげられ、顔が蒼白になった。
カルロは肩をすくめて、シャンパンを飲んだ。「金持ちの中年男と言ってもいい」
「それがわたしの目当てだと思っているの?」
「きみは美人だからな」
エストレリャは顔をしかめた。「美人だと、節操がない女ということになるの?」
ひどくショックを受けた口ぶりだ。傷ついた声の調子が、カトリック校の女子生徒を思い起こさせる。この演技力には舌を巻かざるを得ない。予想していたより、かなり上手の役者だ。それとも、ジョイのおかげでぼくの人を見る目が鋭くなっただけだろうか。「そんなことは言っていない。きみはすばらしいよ。お姫さまみたいだ」
「当ててみましょうか。あなた、お姫さまに恨みを持っているんでしょう」
「わがままなお姫さまにね」カルロは答えて、グラスを傾けた。シャンパンの泡が浮かびあがる。「だけどきみは、自分はどちらでもないと言うんだろう?」
「わたしのことならわかっていると言わんばかりね」
「ああ、充分わかっているさ」
エストレリャは吐き気を覚えた。ときどき、この仕事がいやになる。自分の顔形が見ず知らずの他人に覚えられていることが。でもわたしは、十八歳のときにみずからの人生を選んだのだ。ヨーロッパでモデルになるのは、アルゼンチンから抜けだすためのチケットだった。そして、ブエノス・アイレスをあとにしてから、一度も過去を振り返ったことはない。
「わかっていないわ」エストレリャは冷たく言った。亡くなった父親のティノ・ガルバンは、一日のうちにいくつもの土地を売り買いするような、アルゼンチンでも屈指の資産家であり、伯爵の爵位を持つ貴族だった。だから、傲慢で権力を振りかざす男については、よく知っている。
「それなら、教えてくれよ」男が言った。「ぜひ聞きたいね」
無遠慮にじろじろ見られて、エストレリャはここから逃げだして隠れたくなった。この男はただ外見の品定めをしているのではない。きらびやかなイブニングドレスの下の体がどんなふうか、頭に思い描いているのだ。とはいえ、この体がどんなふうか彼がすでに知っているのは間違いない。去年、肌をあらわにした下着の広告が、イタリア全土の半分に出まわったのだ。「あなたはいやな人ね」
「それはない。さんざん苦労して、今夜のレセプションの招待状を手配してやったのに」
エストレリャはまだ固まっていないセメントに足を踏み入れたような気分になった。「あなたが招待状を送ってくれたの?」
男はエストレリャにじっと目を据えたまま、グラスからシャンパンを飲んだ。「ああ」
「あなた、何者なの?」
彼は口元をゆるめた。「名刺をあげただろう」
そうだった。名刺は彼女の汗ばんだ手のなかで握りつぶされ、くしゃくしゃに丸まっていた。象牙色をした厚手のカードについたしわを伸ばして、ちらっと目をやる。そこには、名前と電話番号だけが印刷されていた。
その名前を読む。カルロ・ガベリーニ。
彼女は頭がくらくらした。そんなはずがない。まさか、そんな……。
「どうかしたかい、ミス・ガルバン?」
エストレリャは目を上げて、男を見た。口がからからに乾いていた。この人がカルロ・ガベリーニであるはずがない。カルロ・ガベリーニはアンドレの主力スポンサーである投資銀行の社長だ。アンドレのレーシングカーに資金を出し、この一年のあいだに、彼の口座に数百万ドルもの大金をあっさり注ぎ込んだ。
カルロは首をかしげ、情け深いとも受けとれる笑みを浮かべた。「アンドレの銀行口座の金を全額引きだしたとき、きみはまだ彼の愛人だったのか?それとも、金を奪ったのは彼が発作を起こしたあとか?」
2
エストレリャはむきだしの腕をさすって、粟立った肌を元に戻そうとした。うまくいかないことばかりだ。しかも今度は、イタリア人のベンチャー投資家カルロ・ガベリーニに、カンヌでも評判の高いパーティーに出席した人々の前で侮辱された。「アンドレの銀行口座に手をつけたことはないわ」
「それなら、金はどこへ消えた?」
エストレリャはいらいらして肩をすくめた。「たぶん、麻薬を手に入れるのに使ってしまったんでしょう。それで発作を起こしたんだもの」
「だからあいつを捨てたのか?」
「お互い合意のうえで別れたのよ」どうしてわたしは、わざわざこんな会話に付き合っているのだろう?
「アンドレの言っていることと違うな」
エストレリャはこみあげるむかつきをこらえた。本当に吐きそうだった。「ミスター・ガベリーニ、そんなにわたしのことが気に入らないなら、どうして苦労してまで今夜のパーティーに招待してくれたの?」
「好奇心を満たすためさ」広い肩がすくめられた。「それに、阻止するためだ。このカンヌで、きみがだれかにつけ込むことが、絶対にないようにしたかった。きみは汚いうそをついて、人をだますからな」
「わたしは人をだましたりしないわ」エストレリャはカルロ・ガベリーニの顔から目を離せずに言った。彼はそのくらい力強い骨格を持ち、まるで建築物にたとえられそうな、目鼻立ちのくっきりした顔をしている。「ここへ来たのは映画祭のためよ」
「映画祭?」
「映画を一本、持ってきているの」
カルロは低く口笛を吹いた。
「映画ね。最初はモデルで、次は女優か。きみにそんなにたくさん隠れた才能があるとは知らなかった」
この人と話していると、ひどく不快な気分になる。エストレリャはまじめに仕事に打ち込んできたし、そうしたという自信もあった。「今夜ここに来ている人たちの半分はそうでしょうけど、わたしも作品を売り込んでいるの」
カルロの視線はエストレリャに据えられ、またひと口シャンパンを飲むあいだも揺らがなかった。「きみが金脈を探しているのはわかっていたよ」
金づる。金持ちの中年男。少し前に浴びせられた嘲りの言葉が耳のなかでこだましたが、エストレリャは嫌悪を抑えつけた。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。わたしには、今夜ここにいる人たちの助けが必要なのだ。「わたしは映画の買い手を探しているの。もし見つけられなければ、ひとりで世の中に広めなければならない。でもこの業界におけるほかの活動と同じで、そうするにもお金がかかるのよ」
「それなら話は簡単じゃないか。きみは金を必要としている。ぼくは金を持っている。喜んで力になるよ」
エストレリャは体をぶるっと震わせた。ビーズのイブニングドレスが肌をこする。カルロ・ガベリーニからはなんの敬意も感じられない。彼の目に映るわたしは、金銭で自由になる女でしかないのだ。そして彼は今、お金を差しだそうとしている。「何が目的なの、ミスター・ガベリーニ?」
「簡単な話だ」カルロの唇が弧を描く。目が細められて、彼は笑顔になった。「きみさ」
しばらくのあいだ、エストレリャはただ彼を見つめた。激しく沸きたつ感情を表現する言葉が見つけられない。
「わたし?」
カルロが頭を縦に振った。パーティー会場の天井に並んだ豪華なクリスタルのシャンデリアの光を受けて、黒い髪が輝いた。
「きみがアンドレとしたのと、同じ取り引きがしたい」
一瞬、頭のなかでとどろく憤怒の叫びしか聞こえなくなったが、エストレリャはやっとのことで怒りをこらえた。インド旅行で出会った、親をなくしたおおぜいの少女たちのことを忘れてはならない。
未来も希望もない、百人もの少女たち。
しかし、あのドキュメンタリー映画がすべてを変えてくれるだろう。彼女たちにチャンスを与えてくれるだろう。
カルロの視線がエストレリャの目をとらえた。「いくら必要なんだ?」
エストレリャは顎を突きだした。「いくら持っているの?」
突然、カルロが笑い声をあげた。「わかったよ。その映画について話してくれないか。主役は、きみか?」
「いいえ」
ふいに、彼女は思った。こんなくだらない会話を、これ以上一瞬たりとも続けていられない。わたしが自己弁護をしなければならない理由はないし、もちろん、彼の侮辱をがまんしなければならない理由もない。自尊心を失わずに、お金を手に入れて、映画『ワン・ハート』の後援者を見つける方法はきっとある。
エストレリャはカルロの視線を受けとめ、どうにか小さな笑みらしきものを浮かべて言った。「失礼するわ、ミスター・ガベリーニ」
〈マジェスティック・ホテル〉を出ると、驚いたことに、外はどしゃ降りだった。エストレリャは激しく打ちつける雨を見つめた。カンヌの町の明るい光がぼんやりとにじんでいる。
彼女は雨のなかを歩きだしたが、二ブロックほど行ったところで、タクシーを待てばよかったと思った。ずぶ濡れで寒いのに、まだ何ブロックも歩かなくてはならない。
通りを渡ろうとしたとき、視界の隅でさっと動くものがあった。うなじの毛が逆立ち、第六感が振り返れと警告を発する。そのとおりにすると、自分がもう、ひとりきりではなくなっているのがわかった。すぐうしろに、男が二人いる。何かほしいものがあるのは明白だ。
ほかに歩いている人がいないかと、エストレリャは左右に視線を走らせたが、雨で街灯の明かりはぼやけ、通りは暗くてよく見えなかった。ホテルまでひとりで歩いて帰ろうと思ったのは、とんでもない間違いだったのだ。
そのとき、黒っぽいベンツが歩道のわきに止まった。
薄い色のついた窓が開き、カルロ・ガベリーニがだれも座っていない助手席越しに身を乗りだした。「だいじょうぶか?」
エストレリャは身を震わせて、濡れたショールを胸に引き寄せた。
「会えてうれしいわ、カルロ」
彼は銀色の目を細めて、車のドアを開けた。「乗って」
エストレリャが助手席に座るとすぐ、カルロはアクセルを踏み込んで、歩道から離れた。
「〈カールトン〉に泊まっているんだろう?」
〈カールトン・ホテル〉は、アメリカの有名な映画監督やプロデューサーたちがそろって滞在しているホテルだ。
「ええ、ありがとう」
手がぶるぶる震えていたので、エストレリャは何度か失敗してからやっとシートベルトを締めることができた。
カルロが前を向いたまま、視線をちらりと横に投げた。「警察に通報しないといけないな」
「それで、なんて言うの?通りの角で、男が二人近づいてきたって?」
「けがをしていたかもしれないんだぞ」
「わかっているわ」エストレリャは頭を上げた。一瞬、視線と視線が絡み合った。「ありがとう」
カルロの胃がぎゅっと締めつけられた。エストレリャの目は美しく、感情と知性と熱意に満ちている。
写真のなかの彼女は見たことがあった。ミラノのファッションショーでも、舞台を歩く彼女を何度も見た。その表情はいつも硬く、うつろで、からっぽだった。
だから、彼女の人間性も同じに違いないと決めてかかっていた。
だがカルロはだんだんと気づきはじめていた。彼女は想像していたより、ずっと興味深い女性なのかもしれない。アンドレが言っていたような、冷たくおもしろみのないモデルというわけではなく。
カルロは〈カールトン・ホテル〉のボーイに駐車を頼み、タキシードのジャケットを脱いでエストレリャのむきだしの肩を包むと、そばに付き添ってこみ合った優美なロビーに入った。
エストレリャはまだ神経を高ぶらせていた。しかし、濡れた長い髪を頭に張りつかせ、ジャケットをはおった姿にさえ、いくつもの顔を振り向かせる力があった。
二人でロビーを進んでいくあいだに、カルロは人々の視線を感じ、ささやきを聞いた。エストレリャもきっと同じだろうと思ったが、彼女は何も言わず、胸を張り、頭を高く上げて、世の中になんの心配もないような態度で歩いていた。
エレベーターホールに着くと、エストレリャはタキシードのジャケットを肩からはずし、カルロに返した。顔には用心深い表情が浮かんでいる。「よくわからないわ。今夜、あなたはわたしにさんざんひどいことを言ったのに、そのあとで助けてくれた。なぜなの?」
いい質問だ。カルロは胸のなかでつぶやいてから、肩をすくめて答えた。「そうなる運命だったんだよ」
エストレリャの口元がこわばった。「わたしは運命なんて信じないわ」
エレベーターの金色の扉が音もなく開いた。カルロがドアを押さえようとして前へ出ると、エストレリャに体が近づき、彼女の香水がふわりと漂った。ほのかな花の香りが、彼女にぴったり合っているように感じられた。
「信じたほうがいいかもしれない」カルロはエストレリャの耳元でささやき、頭をさげて、彼女にキスした。
3
カルロのキスは、エストレリャがこんなふうにキスされたいと、いつも願っていたとおりのキスだった。
キスは完全に理想どおりなのに、相手は完全に理想とは違っている。しかし、相手のことを考えずに、感覚と感情だけに身をゆだねていると、キスはとてもすばらしかった。そう、ぞくぞくするほど刺激的だった。
カルロの両手が頭のうしろから背中へと滑りおり、腰のあたりで止まる。ゆっくりと背筋をたどられて、エストレリャの全身の神経は喜びで震えた。
カルロの触れ方は、男性は女性にこう触れるべきだという手本のような触れ方だった。手はしっかりと相手の体を支え、唇は強くも弱くもなく押しつけられているのに、抑えることも抵抗することもできない反応を引きだす。
これは生まれて初めての本物のキスだ。エストレリャはくらくらする頭でそう思った。
しびれるようなキス。人を永遠に変えてしまうキス。
カルロが顔を上げて、エストレリャの赤くほてった頬を親指でなでた。
「また明日、カーラ」
“いとしい人”と呼ばれて、エストレリャははっと身をこわばらせた。「明日?わたしのことを追いまわすつもり?」
カルロがかすかに口元をゆるめた。
「きみは追いまわしたくなるようなすてきな腰をしている」
「あなたはやっぱりいやな人ね、ミスター・ガベリーニ」
「けっこう。きみにいい人だなどと思われたくはない」
視線と視線がぶつかり、絡み合った。カルロの目のなかに、言葉とは裏腹の気持ちがふっと浮かぶのが見えた。
そして彼は、背を向けて歩き去った。
カルロが車に戻ろうとホテルのロビーを横切っていると、バーから声がかかった。
「カルロ、いっしょに一杯やろう!」
大学時代からの友人、レミだった。卒業後はキャスティング・エージェントになり、パリにオフィスをかまえて大成功をおさめている。
「さっきのは、エストレリャ・ガルバンじゃないのか?」レミはそう尋ねて、バーテンダーに手ぶりでブランデーを二杯注文した。
カルロは薄暗いバーのスツールに腰かけた。「そうだ」答えながら思う。エストレリャ・ガルバンには、どこかぼくの心を強くとらえるところがある。彼女のことが好きだ。好きになるべきではないのに、好きになっている。
「モデルと付き合うのは、やめたんじゃなかったのか?」レミが尋ねた。
「やめたよ」
「じゃあ、付き合ってるわけじゃないんだな?」
「ああ」カルロはエストレリャの情熱的なはしばみ色の目や、やわらかな唇や、自分の体にしっくりとなじんだ体のことを、懸命に忘れようとした。「どうしてそんなことをきく?」
「ぜひとも彼女をベッドに連れ込みたくてね」
カルロはかっとした。そして、胸がぎゅっと締めつけられた。ばかばかしい。だいいち、エストレリャがレミに興味を持つとは思えない。
レミはたばこのパックを軽く叩いて、飛びだした一本をカルロに勧めた。「ところで、ジョイはどうしているんだ?」
カルロはたばこを断った。何年も前、カルロが付き合っていたアメリカ人モデルのジョイに、レミはずっと夢中だった。彼女は出世のために利用できる人間はだれでも利用した。カルロの妹、ギャビーまでも。
カルロと手を切ったとき、ジョイはギャビーとも手を切った。妹は打ちひしがれた。どうして“親友”にひどい目に遭わされたのか、理解できなかったのだ。
「さあね」
レミはライターの蓋をかちっと開いて、たばこに火をつけた。「エストレリャは映画の後援者をつかまえようとしているらしい。だが気の毒なことに、彼女には自主製作映画をどうやって配給すればいいのかが、まったくわかっていない」
「プロデューサーをしているわけじゃないんだろう?」
「そんなに大がかりな映画じゃないんだ。ドキュメンタリーでね」レミはたばこの煙をふうっと吐きだして言った。「インドの孤児を撮ったものだよ。最初、あのモデル嬢はナレーターだけやるって話だったんだ。だが撮影が終わってすぐ、アイルランド人の若い女性監督が殺されてしまった。それで、彼女があとを引き継いだってわけさ」
カルロははらわたが岩のように硬くなるのを感じた。
〈マジェスティック・ホテル〉のレセプション会場にいた自分の姿が思いだされる。自分の口から出たいくつもの嘲りの言葉も。「それじゃあ、映画は本当にあるのか?」
「ああ。『ワン・ハート』っていう映画だ」レミはまたふうっと煙を吐きだした。「おまえが知らないとは驚きだな。みんな寄ってたかって、あの映画に金を出してもらうのはたいへんだろうって話してるが、実物を観たやつはいない。まあ観なくても、想像はつくよ。彼女はモデルだ。脳外科医じゃない。頭の程度は知れているってことさ」
カルロはブランデーに口もつけずにホテルを出た。
エストレリャの映画は正真正銘の本物なのか?
孤児を撮ったドキュメンタリーだって?
それなのに、彼女がもっとも必要としていた人々の前で、ぼくは恥をかかせたのか?
もし、そうなら、このぼくは救いようのないろくでなしだ。
熱いシャワーを浴びたあと、エストレリャはホテルの白いバスローブにくるまって、部屋からバルコニーへ出るドアを開けた。
どしゃ降りはこぬか雨に変わり、さわやかで芳しい夜の香りがよりいっそう強く感じられる。それでも、今夜起こったいろいろなことを忘れるのはむずかしい。
問題ばかりの一夜だった。急いで服を着て、飛行機に飛び乗り、自分が本当に必要とされているインドへ戻りたい。
ここでは、必要とされていないばかりか、望まれてさえいない気がする。
カルロ・ガベリーニのせいで、現実をはっきり思い知らされた。わたしはこのカンヌで、顔がきれいなだけで能のない、ありふれたモデルのひとりとみなされている。
六年前、ブエノス・アイレスをあとにしたのは、気ままで自分のことしか考えない母親と、母親の裕福な家族たちが享受していた、やはり気ままで自分たちのことしか考えない生活から逃げだすためだった。
幼いころからずっと、エストレリャはもっと多くを求めていた。物質的な意味ではなく、もっと多くの感情や、もっと多くの情熱や、もっと多くの行動を起こすことを。
モデルの仕事はもっとおもしろい人生を送るためのチケットに思えた。しかし、その仕事を六年続けてみると、制限がさらに増えただけだということに気づいた。
男たちはきれいな女というイメージを愛して、彼女に口を開かせたがらなかった。
だから、エストレリャは話すのをやめた。そしてそう長くは経たないうちに、自分のことを、心は冷たく孤独でも顔では笑っているバービー人形みたいに感じるようになっていた。
彼女は小さくため息をついてバルコニーのドアを閉め、そこに背中をあずけた。
もう何カ月も、デートをしていない。アンドレと別れてから、だれとも付き合う気になれなかったのだ。
しかし、今夜のカルロのキスで、心のなかの何かがかき乱されていた。
カルロもアンドレに似て思いやりがなかったが、キスはすばらしかった。その触れ方やキスの仕方に、心の底から温かな気持ちにさせてくれる何かがあった。
たった一度のキスで、どうして頭からもやもやしたものが取り除かれたのだろう?
なぜ可能性や未知の人生を信じる気持ちになったのだろう?
いいえ。たった一度のキスで、そんなふうになるはずがない。
ただの錯覚だ。単なる気の迷いだ。疲れたせいで、どうかしているに違いない。
そろそろ眠らなければ。
明日は『ワン・ハート』が上映される。カンヌに来て以来、いちばんたいせつな日だ。ここにすべてがかかっている。
映画を上映することによって、言葉では表せないものが色彩や映像で伝わり、インドの窮状を訴えられるはずだ。村の孤児院や、家族に捨てられたおおぜいの幼い少女たちや、成長して売春婦として売られる少女たちの運命を、人々にわかってもらえるだろう。
エストレリャは部屋の明かりを消した。朝になれば、友人のアリーが骨折ってきた仕事がやっと日の目を見るのだ。
電話が鳴る音で、エストレリャは目覚めた。
「悪いニュースを知らせるのはいやだが、下へ下りてきたほうがいい」
このハスキーな声の持ち主は、ひとりしか知らない。
エストレリャは、カルロ・ガベリーニの声を聞きわけてしまったことにいらだちながら答えた。「興味ないわ」
「あるはずだ」
エストレリャはベッドの上で体を起こした。「わたしには、こんなことをしている暇はないのよ」
「あると思うよ」カルロの声がやさしくなった。「エストレリャ、下りてきたほうがいい。だいじな話なんだ」
その口調のどこかに、背筋を震わせるものがあった。ひどく心配しているような響きだったのだ。しかし、カルロは友人でもないし、味方でもない。それなのに、なぜわたしのことを心配しなければならないの?「なんなの?おどかさないでちょうだい」
「すまない」
一瞬ためらったあと、カルロはまた話しはじめた。
「きみの映画が上映中止になった」
4
上映が中止になった?
エストレリャは頭から冷たい水を浴びせられたような気がした。上映が中止になるはずがない。大手の配給会社に興味を持ってもらういちばんのチャンスなのに。
「そんなはずないわ。広告も出したし、ちらしも配ったのよ」
「どうも、劇場で何かの手違いがあった――」
カルロが最後まで言い終わらないうちに、エストレリャは電話を切って、ベッドから飛び起き、服を着た。
エレベーターのなかで、黒みがかった長い髪をポニーテールに結っていると、その最中にドアが開いた。電話を切って三分もしないうちに、彼女はロビーに到着し、待っていたカルロに合流した。
「どうしたっていうの?」色褪せたジーンズにグリーンの紗のブラウスの裾をたくし込みながら尋ねる。
カルロが言った。「表に車を待たせてある。いっしょに映画祭の事務局へ行こう」
運転手つきのリムジンの後部座席に腰かけると、エストレリャの手はぶるぶる震えだした。「中止になったことを、どうしてあなたが知っているの?」
「いろいろききたいことがあって、問い合わせたんだ」
「なぜ?」
「きみの作品に興味があった」
「本当に作品があるとは思っていなかったからでしょう?」
「だって、きみはモデルじゃないか、エストレリャ」
「あなたなんて、地獄に落ちればいいのよ!」エストレリャは身を乗りだして、後部座席と運転席を仕切っているガラスを叩いた。「止めてちょうだい。降りたいの」
カルロがエストレリャの腕に手を置いた。「ばかを言うな。もう少しで着く」
エストレリャはカルロの手を払いのけた。「かまわないわ。わたしという人間を勝手に判断しないで。あなたに面倒を増やされなくても、わたしの人生はもう充分にたいへんなのよ」
運転手が歩道ぎわに車を止めた。エストレリャはバッグとバインダーを急いで手に取った。バインダーには映画の脚本や人物紹介、テーマを始めとして、作品に関する資料がまとめられている。
カルロが小声で毒づいた。「きみの役に立とうとしているんだよ、エストレリャ」
「役に立つですって?」エストレリャはドアのハンドルをつかんで言い返した。よくもぬけぬけとそんなことが言えたものだ。「ゆうべ、〈マジェスティック・ホテル〉で役に立ってくれたみたいに?だったら、やめて。あなたが役に立つと思っていることは、わたしの映画をつぶすことだから」
彼女は車の後部座席からさっと降りて、国際映画祭の事務局へ走った。しかし、息を切らして助けを求めても、そっけない態度であしらわれただけだった。
「もうその劇場は使えませんよ」事務局の受付にいた女性は、登録用紙の束をぱらぱらとめくりながら答えた。
エストレリャはカウンターに分厚いバインダーを置いた。「でも、どうして?なぜなの?」
「上映室の予約が重なっていたんです。どちらかを取り消さなければならなくて、それがあなたの映画だったというわけです」
「でも、あの場所は何カ月も前から予約してあったのよ」エストレリャはバッグのなかをかきまわして書類を取りだした。「確認書だってあるわ」
「それはただの紙切れです。だれもが同じ紙を持っていますし、映画を持っているんです。ここはカンヌなんですから」
エストレリャは確認書を握り締めた。胸に氷の破片がつかえたような気がした。「何か方法があるはずよ」
「この件はもうわたしの手を離れていますから、わたしにできることはありません」
そんな話を受け入れられるわけがない。「わたしのドキュメンタリーを取り消すっていうのは、いつ決まったの?」
女性はフランス語で何かつぶやいてから、コンピューターのところへ歩いていって、ファイルを開いた。エストレリャを見あげて言う。「きのうの夜遅くです。〈マジェスティック・ホテル〉でのレセプションのあと、会合がありました」
〈マジェスティック・ホテル〉でのレセプション。
ゆうべ出席したパーティーのあとで、映画の上映を取り消されたというの?
みんなの前で、カルロに信用を傷つけられたあとで?
絶望的だ。それに、もうくたくただ。長いあいだこの作品のために闘ってきたのに、何ひとつうまくいかない。
エストレリャは言葉をなくして、がっくりと肩を落とし、映画祭の事務局をあとにした。日差しの下に出て、太陽のまぶしさに目をしばたたく。カルロ・ガベリーニが、歩道ぎわに止めた車のかたわらに立って、待っているのが見えた。
彼女のなかで、何かがぷつんと切れた。自制心も忍耐も冷静さも、すっかり失われていた。抑えようのない怒りをぶつけたくて、カルロにつかつかと歩み寄り、大声をあげた。「やってくれたわね。あなたのせいよ。あなたに笑い物にされたあと、上映は中止になったのよ」
「ちょっと待った。落ち着いてくれ」カルロが両手を上げた。
「落ち着けですって?よくもそんなことが言えるわね!映画を配給してもらうためにここへ来たのに、あなたが何もかもめちゃめちゃにしたのよ。わたしの評判まで地に落としてね。よく平気でいられるわね、ガベリーニ。どうして、こんなふうに人を踏みつけにできるの?」
「踏みつけになんかしていない」
「したわ」エストレリャの心臓は激しく打ち、両手は震えた。カルロがよけいなまねさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。「知っているでしょう。劇場はみんな、何カ月も前から予約されているのよ。去年の映画祭が終わってすぐ、予約されたところだってあるわ。こんなぎりぎりになって、べつの場所を見つけるのは無理よ」
カルロは額にしわを寄せた。「悪かった」
エストレリャの目に涙があふれたが、彼の前で泣くくらいなら、地獄の炎で焼かれるほうがましだった。
「悪かったなんて、思っていないくせに。計画どおりになったんでしょう。ちゃんとした映画製作者としてのわたしの信用をだいなしにして」バインダーを胸に抱き締める。「でもね、カルロ、あなたが傷つけたのはわたしじゃない。おおぜいの幼い少女たちなのよ」
彼女はバインダーを開いて、白黒写真を貼ったページを指さした。
「この赤ちゃんたちはみんな、生まれると同時に死ぬことになっているの。なぜだかわかる?女の子だからよ。インド南部のタミール・ナドゥ州には、生まれると同時に女の子を殺してしまう村がいまだにあるの。女の子が生まれると、家族に呪いがかかると信じられているから」
頭を上げて、カルロを見る。悲しみと怒りで目がちかちかした。
「『ワン・ハート』は、こういう望まれない赤ちゃんたちを救おうとしている、タミール・ナドゥの孤児院の話なの。貧しくても変化を起こそうとしている、インド南部の人たちについての映画なの」
バインダーから写真を貼ったページを破りとって、カルロに突きつける。
「観てもらわなければいけない映画だったのよ。観てもらえるはずだった。あなたがわたしをほうっておいてくれさえしたら」
カルロは写真を貼ったページにじっと目を落とした。六枚の写真にうつった女の子たちはみんなとても幼く、一歳から三歳までの幼児がほとんどだった。みんな美しい茶色の目を持ち、暗い表情をしている。「ぼくが上映を中止にしたわけじゃない」静かな声で言う。「そんなことをしようなんて思いもしないよ」
「でも、わたしに恥をかかせたわ」
カルロは、最後に自分がこれほど卑劣で意地の悪いけちな人間になった気がしたのはいつか、思いだせなかった。
エストレリャの言うとおりだ。ぼくは彼女に恥をかかせた。彼女が新しい標的をだまして、利用するつもりだと思ったのだ。ジョイがぼくをだましたように。エストレリャにだまされたと、アンドレが言っていたように。
しかし、アンドレはうそをついていたのだ。
エストレリャはジョイとは違う。無神経で自分のことしか考えない人間ではない。
「どうして邪魔したの?」エストレリャがかすれた声で尋ねた。
カルロは罪悪感にさいなまれて、ごくりと唾をのみ込んだ。
「みんなを守るつもりだったんだ」なんて虚しい言葉だろう。なんて説得力のない言い訳だろう。「きみはアンドレに金があるときだけいっしょにいて、あいつが事故を起こして何もかも失うと姿をくらました」
エストレリャは首を振った。傷つき、あきれたように唇を震わせる。「事実に関心はないでしょうけど、わたしはアンドレを利用してなどいないわ。あの人がわたしを利用したのよ。わたしの銀行預金をぜんぶ引きだしただけでなく、こっそりほかの女性たちと関係を持っていた。あの発作を起こしたときも、ひとりじゃなかったわ。わたしの親友と裸でベッドに入って、おかしな白い粉を吸っていたのよ」
カルロはハンマーで殴られたような気がした。「なんと言えばいいのか、言葉もないよ」
「それはそうでしょう。残酷なことを言うほうが簡単だもの」
5
エストレリャが、もうまとわりつかないでほしいと言うと、カルロはそのとおりにした。
ひとりになったところで、彼女は二、三時間ほど自分を哀れんで過ごした。それから、きっぱりと気持ちを切りかえた。
この映画を埋もれたままにしておくつもりはない。上映できないなら、ほかの方法で配給会社の関心を引くのだ。
カンヌじゅうに『ワン・ハート』のあらすじを配ろう。ちらしを千枚つくって、いろいろな場所に置いてもらおう。
いい計画に思えた。しかしそれは、実際に千枚のちらしを配りはじめるまでのことだった。
翌朝遅く、エストレリャはクロワゼット大通りのはずれに立っていた。
通りにはアメリカ館やイギリス館といった名前の巨大テントが並んでいる。それぞれのテントは、飲み物を飲んだり、おしゃべりをしたり、取り引きをしたりする人々でにぎわっている。
朝からのちらし配りで足や腕が痛むけれど、今はそれを忘れなければならない。
痛みなどどうでもいい。だいじなのは少女たちの未来と、アリーの夢だ。それらが託されたこの映画だ。まめのできたかかとや、力の入らなくなった腕ではない。
エストレリャが少女たちのことを思いだして勇気を奮い起こし、イタリア館の前を通りすぎたとき、テントのなかから声がかかった。
「どんな調子だい?」
エストレリャの体がこわばった。
また、彼だ!
カンヌには何千もの人がいるのに、なぜカルロ・ガベリーニとばかり顔を合わせなければならないのだろう?
分厚いちらしの束をしっかりとつかみ、彼女はカルロを眺めた。
彼はテントのなかをぶらぶら歩いて、道路ぎわへやってくる。
今日の彼は、またいちだんとすてきに見える。さりげなく襟元のボタンをはずした白いワイシャツ。イタリア製の高級生地を使ったライトグレーのパンツ。上品な革のベルトと靴。そしてもちろん、目をみはるほど美しい顔。
「うまくいっているわ」エストレリャは答えた。もう少しで倒れそうだったが、そんなことを知られたくなかった。
「なかへ入って、ちょっと休まないか?冷たい飲み物でもどうだい?」
「だめよ。配らなければならないちらしが、まだ何百枚もあるの」
「一枚もらえるかな?」
エストレリャは黙って手渡し、ちらしを見つめるカルロに向かって言った。「作品の概要よ」
彼は内容に目を通してから、顔を上げて感心したようにうなずいた。「よくできている。作品の特色、人物紹介、脚本、あらすじ、連絡先。すべてそろっている。がんばったな。これほど行き届いて完璧な作品概要を、ここで見たのは初めてだよ」
気持ちのこもったまなざしのせいか、賞賛の言葉のせいか、どちらかはわからなかったが、エストレリャはうれしさで顔を赤らめた。好意的な言葉を聞くのは、とても快かった。
しかし、カルロの賛辞に大喜びしている自分に気づいたとたん、そのばかさかげんをののしらずにはいられなくなった。
カルロ・ガベリーニの意見など重要ではない。彼はいやな男だ。彼のせいで、カンヌへの旅が完全な悪夢に変わってしまったのだ。
カルロがまた口を開いた。「そのちらしを半分くれないか?配るのを手伝うよ。そうすれば、一日じゅう歩きつづけなくてすむだろう」
これは、彼なりにあやまっているつもりなのだろうか?もしそうだとしても、謝罪を受け入れるべきかどうかよくわからない。
「こういうことは得意なんだ」カルロはまじめな口調で付け加えた。「証券取引所で働いていたことがあってね。ビルじゅうを走りまわって書類を届けていた。配達は迅速確実だ」
エストレリャは思わず口元をゆるめた。申し出を断りたくても、断れなかった。彼女はひどくカルロの助けを必要としていたし、それはインドで彼女を待つ子どもたちも同じだった。「これから、クロワゼット大通りに取りかかるの」
「わかった。ぼくは右側の歩道を受け持つ。きみは左側を頼むよ。通りの向こう端で会おう」カルロの銀色の目から放たれた視線がエストレリャの視線とぶつかり、少しのあいだ絡み合った。
彼女は全身にぞくぞくする震えが走るのを感じた。
二時間近く経って、エストレリャはクロワゼット大通りの受け持ち区域で作業を終えた。彼女に気づくファンがだんだんと増えてきたせいで、ちらしを渡すのと同じくらい、サインをしたり写真のためのポーズをとったりするのに時間がかかった。
またべつの写真撮影が始まったとき、カルロが人垣を分けてやってきて、エストレリャを救出してくれた。「冷たい飲み物はどうだい?今度はいいだろう?」
エストレリャは感謝をこめてうなずいた。喉がからからだった。まぶしい日差しと騒がしい雑踏のせいで、頭もずきずきした。「ええ、ありがとう」
カルロは眉をひそめ、手の甲をエストレリャの額に軽く押しつけた。「だいじょうぶかい、いとしい人?」
カルロの手は冷たく引き締まっていて、とても心地よかった。エストレリャはやっとのことで小さな笑みを浮かべた。「喉が渇いているだけよ」
カルロはうなずいたが、用心深い表情は変わらなかった。「日陰へ行こう」そう言って、エストレリャの腰にかばうように手を置き、こみ合った歩道を離れて、ひときわ目立つ〈マルティネス・ホテル〉の石段へ向かった。
カルロの指が背中に押しつけられたとき、エストレリャは震えをこらえた。彼の手の感触や、人ごみのなかでも自信に満ちてくつろいで見える態度が、とても好ましく思える。
二人はホテルのロビーを抜けて、テラスのついたレストランに入ると、窓ぎわの席に座った。開け放たれた背の高い窓々から、午後のそよかぜが吹いてくる。
カルロがアフタヌーン・ティーを二人分注文した。
ぱりっとした白いリネンがかかった小さなテーブルに向かい合って座っているうちに、エストレリャの気持ちは少しずつほぐれはじめた。太陽は輝き、混雑したビーチに、きちんと並んだストライプのパラソルや、ブロンズ色に焼けたたくさんの体が見える。
「アンドレが薬物中毒だったとは知らなかった」カルロの声が沈黙を破った。
エストレリャは静かに答えた。「たいへんな中毒よ。でも、あなたには必死で隠していたわ」
「金はみんな薬に消えたのか?」
エストレリャは身じろぎした。アンドレの話をするのはいやだ。彼のことは、考えるのさえいやなのだ。アンドレは平気で他人を傷つける。彼と付き合った事実は、今までの人生でも最悪の汚点だ。「それに、ギャンブルにもね。すっかり、悪い人たちの仲間になっていたわ。でも、くわしいことは知らないの。わたしにはそういうことを話さなかったから」
カルロはため息をつき、黒っぽい髪に手を突っ込んで、くしゃくしゃにかき乱した。「まったく。完全に誤解していたよ。二と二を足して、七だと思っていたんだ。悪かった」
エストレリャは目を上げてカルロを見た。胸がどきっとする。あまりにばかばかしい気がした。彼に夢中になるなんて、そんなことを自分に許せるはずがない。
それでも、彼にはどこか引きつけられるところがある。
「アンドレを信じていたのは、あなただけじゃないわ」しばらくして、エストレリャは揺れる気持ちを無視しようとしながら言った。
心の片隅で、彼女は願っていた。もしかしたら、わたしと真剣に向き合ってくれる人が現れる日がくるかもしれない。いつの日か、自分にふさわしい男性と本物の愛を見つけられるかもしれないと。彼女は深い息をついた。
「みんなそうだった。アンドレはなろうと思えば魅力的になれたから。どうやって人を操ればいいか、知っていたのよ。言うまでもなく、わたしも操られたわ」
「きみがそんなふうに傷つけられたなんて、気の毒だったと思う」
エストレリャは肩をすくめた。「ああいう目に遭わなかったら、しばらくヨーロッパから逃げだしたいとは考えなかったはずよ。そうしたら、映画のナレーターを引き受けることもなかったわ。言ってみれば、アンドレの裏切りのおかげで、自分の使命を見つけられたのよ」
カルロの強い視線がエストレリャの視線と絡み合った。「運命だな」
「違うわ」
「運命だ」カルロは繰り返した。
二人は黙りこくった。長い沈黙が、その場の空気を緊張させる。
運命。
エストレリャは浅く息を吸った。鼓動が速くなっていた。突然、カルロの言うとおりかもしれないと思えてきたのだ。
もしかしたら、運命がわたしとカルロをめぐり合わせたのかもしれない。もしかしたら、二人の前にもっとすばらしいことが待ちかまえているのかもしれない。ともに生きていく宿命が。
いいえ、そんなことはない。
絶対にない。
エストレリャは呪縛を解こうとするかのように片手を上げた。こんなことを考えたのは、暑さのせいだ。いつまでも弱まらない日差しのせいでもあるし、疲れているせいでもある。
カルロのせいでも、運命のせいでもない。彼といっしょにいることを、こんなにうれしがっていてはいけないのだ。彼はどうしようもない男だ。彼のせいでわたしは窮地に陥った。つながりを持つなどとんでもない。意思のうえでも、気持ちのうえでも、そのほかのどんな部分においても。
エストレリャは椅子を引いて立ちあがった。「もう遅いわ。行かないと。まだたくさんやることがあるの」
カルロも立ちあがった。「ほかに手伝えることはないかい?もっと何かあるはずだ」
確かにあるだろう。彼ほどの資産家なら、上映会場を押さえることも、観客を集めることもできるに違いない。
しかし、それを頼むわけにはいかない。危険だし、間違っている。
「役に立ちたいなら、〈リリーフ・ナウ〉という団体を支援してあげて。アリーが携わっていたNPOなの。寄付したら、きっと喜ばれるわ」
いっしょに表へ出ると、カルロはエストレリャをタクシーの後部座席に押し込んだ。しかし、すぐには車を出させようとせず、座席に身を乗りだして、銀色の目でじっと彼女を見据えた。「ぼくには障害のある妹がいたんだ。二年ほど前に亡くなったけど、生きていたらきみのことを好きになったと思うよ、エストレリャ。きみがやっていることもすばらしいと感じたと思う」少しためらって付け加える。「ぼくもきみがやっていることをすばらしいと思っている」
エストレリャは首を振った。なんと言えばいいかわからなかった。またもや、気持ちをかき乱されていた。相容れない感情があまりにたくさんありすぎた。
カルロは静かな声で続けた。「妹のギャビーはルーマニアからもらわれてきた。母はずっと女の子をほしがっていてね。ギャビーは母のたいせつな娘だったんだ」
エストレリャの顔をじっと見おろしながら、カルロは恋に落ちたことに気づいた。それも、激しい恋に。
彼は手を伸ばして、エストレリャの頬に触れた。「うしろだてが必要なときはいつでも力になるよ、エストレリャ」
エストレリャの目に涙が浮かんだ。「わたしは今でも『ワン・ハート』を上映したいの。もしかして、どこかに電話をかけるか何かして、裏から手をまわしてもらうことはできる?」
カルロは上体を起こして言った。「手伝えることがないか考えてみよう」
6
上映会場は暗かった。映画が終わっても、完全な静けさに包まれていた。エストレリャは両手で椅子の肘を握り締めて、胸を刺すような失望の痛みをこらえた。
観客に気に入ってもらえなかったのだ。
感動を覚えてもらえなかったのだ。
自分と同じようには、子どもたちのことを見てもらえなかったのだ。
明かりがついても、赤い椅子が並んだ観客席は静まり返っていた。そして突然、だれかが拍手した。
次の瞬間、おおぜいの人たちが拍手していた。
エストレリャは鳥肌が立つのを感じた。拍手の音はだんだん大きく、速くなった。頭のなかでごうごうと鈍い音がとどろく。
どう考えていいのかも、どう感じていいのかもわからない。
気に入ってもらえたのだろうか?
だれかが彼女の肘に手を触れ、耳元で言った。「立って。みんな、きみを見たいんだ。きみをたたえたいんだよ」
エストレリャはゆっくりと立ちあがった。照明がさらに明るくなった。そんなものはないのに、スポットライトを浴びて立っている気がした。
場内から観客が去ったあとも、彼女の耳のなかではまだ拍手喝采が鳴り響いていた。今、思うことはふたつだけだ。カルロがいっしょに上映会に参加してくれていたらよかったということ――ホテルに電話して伝言を残しておいたが、返事はなかった。そして、アリーがここにいて、すべてを見ていてくれたらよかったということ。
アリーは大喜びしただろう。彼女こそ、みんなの賞賛を受けるにふさわしい人だった。
「すばらしい仕事をしたね」
エストレリャはくるりと振り返った。すぐうしろの列に、カルロが立っていた。盛装しており、とくに連れはいないようだ。
彼女のなかに驚きとうれしさがわきあがった。赤いシルクのショールをむきだしの肩に巻きつけて言う。「来てくれたのね」
「これは見逃せないよ」
エストレリャの喜びはさらにふくれあがった。ほろ苦い気持ちで胸がいっぱいになる。カルロ・ガベリーニは敵だと思っていたのに、もうそんなふうには感じられない。「ホテルのフロントに伝言を残したのに、あなたから連絡がなかったから……」声がとぎれて、顔が赤くなった。まるで、女子学生のような話し方だ。
「ミラノで商談があったんだ。飛行機で飛んで、一日向こうにいて、夕方戻ったばかりだ」
「でも、映画は観てくれた?」
「ぜんぶ観たよ」
「正直に言って。どう思った?」
「とても力強くて、とてもまっすぐな映画だ」
頬がほてるのがわかったが、エストレリャには抑えようがなかった。ずっと長いあいだ、今夜を待っていたのだ。
「みんなアリーの功績よ。ビジョンを持って、たいへんな役目をこなしたの。そんな彼女の作品をちゃんと観てもらいたかった。そして、そのとおりになった。あなたにお礼を言うわ」
カルロは観客のいなくなった会場にすばやく視線をめぐらせた。「もっと大きな場所ならよかったんだけどな。もっとたくさんの人に見てもらうべきだ」
「いつかはね」
カルロの目がエストレリャの顔を探った。「きみは本当にあの子たちのことを心にかけているんだな」
「当たり前でしょう。あんなにかわいい子どもたちなのに、あそこにいたら未来はないのよ。あの子たちにはもっと価値があるわ。家庭や教育や栄養を与えられる価値が。そして、何より、愛を与えられる価値が」
「養子を斡旋したらどうかな?」
「それも目標のひとつよ。でも、インド国籍の子どもを養子にするのは簡単ではないの。いろいろと複雑な手続きがあって、それをやっと切りぬけても、すべての子どもたちが養子になれるわけではないのよ。そうしたら、残された子どもたちはどうなると思う?だから、養子になれない子どもたちを助けるための資金をつくって、孤児院に教師を送ったり、本や備品を買ったり、薬や食べ物や服を買ったりしようとしているの。やらなければいけないことは山ほどあるのよ」
カルロの表情がやさしくなった。「きみもそういうことがしたいんだね?」
「ええ」
カルロは手を伸ばして、エストレリャの顔にかかった黒髪をひと房、うしろへなでつけた。「だけど、きみに世界を救うことはできない」
顔に当たる彼の手の感触は心地よかったが、その言葉に心がうずいた。「なぜ?」
ありがたいことに、カルロは笑わなかった。ただ、思いやりに満ちた表情で、ゆっくりと首を一度振った。
「そんなことを答えさせないでくれ。今日は長い一日だっただろう?夕食をごちそうさせてくれないか?」
エストレリャは口を開いて断ろうとしたが、できなかった。
まだカルロといっしょにいたい。今夜、彼がここに来てくれて、とてもうれしかった。彼の理解と協力に、必要以上の喜びを感じてしまっている。そんな状態で、別れを告げられるはずがない。
頭を上げて、カルロの顔を見つめる。その顔はとても精悍で、とても落ち着いていた。見つめていると、なぜか胸がときめいた。
わたしには、味方になってくれる人が必要だった。扉を開けて、事を起こしてくれる人が。カルロはそのすべてをしてくれた。
カルロはそこにいて、わたしを支えてくれたのだ。彼のしてくれたことはすばらしかった。
カルロのそばにいて、不安を感じないのは初めてだ。肩肘を張らずに、ただいっしょにいたいと思うのも。心配も、疑いも、抵抗する気持ちも、すべて消えうせた。もしかしたら、彼と夕食をとるのはいい考えかもしれない。「ええ、すてきね。ありがとう」
二人は混雑したクロワゼット大通りから二ブロックほど離れ、どっしりと居並ぶホテルの裏に隠れた、静かなレストランで食事をした。食事のあとは、できるだけ人ごみを避けて〈カールトン・ホテル〉へ戻るため、ビーチへ向かった。
月明かりが海面を照らし、黒っぽい砂に波が白く泡だっていた。
エストレリャは赤いハイヒールのストラップをはずして裸足になり、カルロと並んでひんやりした砂の上を歩いた。
四百メートルほど黙って歩くうちに、エストレリャは自分がカルロと過ごす時間を楽しんでいることに気づいた。今夜、彼はわたしをすばらしい気分にさせてくれた。人生だけでなく、わたし自身についても。
カルロは力強く、しっかりした、本物の男性に思える。
赤いドレスの裾をさらに高く持ちあげて、エストレリャは波打ちぎわに歩を進めた。冷たい水が足にまつわりつき、肌をくすぐる。
ここで見る空はとても大きく果てしない。彼女は振り返って、白亜の建物がひしめく、まばゆいカンヌの町並みに目をやった。
そして、その町を背景にして広がる人けのない砂浜をぐるっと示した。「まるで映画みたい。授賞式の前に、この砂浜で映画を見せればいいのに。ここの美しさには、どの劇場だってかなわないわ」小さな声で笑って、カルロを見つめる。「ごめんなさい。ひとりでしゃべりすぎているわね」
「あやまることはない。楽しいよ。きみの思いつきや考えを聞くのは楽しい。きみのすべてを知りたいんだ」
「でも、言わなくてもいいことまで言うかもしれないわ。間違ったことだって言うかもしれないし」
カルロは近づいてきて、すぐ隣で足を止めた。「自分の意見を持てないなら、思考があっても意味がないだろう?そして口にしてはいけないなら、自分の意見を持つことにも意味はないよ」
エストレリャはこみあげる感情を押し隠して、かすかに口元をほころばせた。
「気をつけて。わたしはいろいろな意見を持っているわよ」
「そいつはいいね」カルロは波打ちぎわから離れて、砂の上に腰を下ろした。「ここへ来て、アルゼンチンの話をしてくれないか。ぼくは行ったことがないんだ」
エストレリャは隣に座った。彼が上着を脱いでむきだしの肩にかけてくれたので、シルクで裏打ちした温かな生地にくるまった。
「ここにいると、マル・イ・シエラスを思いだすわ。訳すと、“海沿いの丘陵地帯”ぐらいの意味かしら」
「ロマンチックな感じがするね」
「そうでしょうね。アルゼンチン人がよく遊びに行きたがる場所なの。このコート・ダジュールみたいに。マル・イ・シエラスには、きれいなビーチやリゾートがあって、大きなナイトクラブやカジノもある。ここと同じように、お金持ちでおしゃれな人たちが集まるのよ」
言葉はそこでとぎれた。カルロが身を乗りだして、エストレリャの頭のうしろをてのひらで支え、キスで口をふさいだのだ。
彼の唇を感じたとたん、熱い炎が揺らめき、エストレリャははっと息をのんだ。カルロの肌は温かくいい香りがして、体はたくましかった。これこそが自分に必要なものだったのだと、彼女の本能が告げていた。
エストレリャは両手でカルロの顔を包み、肌の感触や髪の手ざわりを楽しんだ。
彼が唇でエストレリャの唇を開いた。舌で探られ、唇を強く押しつけられると、彼女の腹部はぎゅっと締めつけられた。
キスの魔力は、テクニックというよりも情熱から生まれていた。
二人のあいだの情熱は、手で触れられそうなほど激しかった。
やがて、エストレリャは砂の上に横たえられた。黒いジャケット越しに、体がやわらかな砂の粒に沈み込む。
カルロが頭を上げ、真剣な表情でじっと彼女を見おろした。
「ぼくがどんなにきみにキスをしたいと思っていたか、わからないだろうね」
「それなら、もう一度してみたほうがいいかもしれないわ」エストレリャはささやいた。
7
一瞬のうちにわきあがった感情に圧倒されそうになって、エストレリャは打ち明けた。「ずっとあなたを待っていたような気がするわ」
カルロは彼女に覆いかぶさったが、両肘をつき、胸と胸が軽く触れ合うところで上半身の体重を支えた。「ぼくもだ」あらわになったエストレリャの鎖骨と首筋にキスの雨を降らす。
首筋にそっとキスされて、エストレリャは体を震わせた。肌に当たる唇の感触はとても甘美だった。唇で唇をたどられると、彼女はため息をついてカルロに両手を伸ばした。黒い髪に深く指を差し入れて、後頭部をてのひらで包み込む。
そして、彼の口元でささやいた。「ここで始めないほうがいいわ。やめられなくなるもの」
「帰ったほうがいいかもしれないな」
「そうね。わたしのホテルへ行きましょう」
〈カールトン・ホテル〉へ戻る途中、パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレの前を通りかかった。赤いカーペットを敷いた二十二の石段で知られる、映画祭のメインホールだ。多くの著名な映画監督や俳優たちがそろってこの石段を上り、やはり多くのカメラマンたちがこぞってこの石段にレンズを向けるのだ。
カルロはエストレリャの腰に腕をまわして、少し歩をゆるめた。これほど楽しい夜を過ごしたのは、本当に久しぶりだ。エストレリャといっしょにいると気分がいい。いつもより感覚もさえているし、気持ちもくつろいでいる。「ほら、これがカンヌでいちばん有名な階段だ」
ハイヒールを二本の指でぶらさげたエストレリャが言った。「人がいないと、感じが違うわね」
「きみもあの石段を上りたい?」
エストレリャは首を振った。「わたしは名声には興味がないから。実際、仕事を変えようと思っているの。人々のために何かができればと考えているわ」
その言葉に、カルロは驚いた。「モデルをやめるのかい?」
「〈リリーフ・ナウ〉で仕事をしないかと誘われているの。受けようと思っているわ」エストレリャはほつれた髪を耳にかけた。
カルロは彼女を見つめた。髪をかきあげる手、月明かりを映してきらめく目。いくら眺めても飽きることはないだろう。「給料をもらえる仕事なのかい?」
「いいえ。でも、貯金が少し残っているから、一、二年は食べていけるわ」
「スポットライトはもう浴びなくていいというわけだね?」カルロはそう尋ねながら、ミラノの大きな屋敷で静かに暮らし、週末にはコモ湖の別荘で過ごすエストレリャとの生活を思い描いた。
「ええ、もういいわ」
二人は〈カールトン・ホテル〉に着き、正面の石段を上った。
なかまで送ってくれたカルロを、エストレリャはエレベーターに引き入れた。「どこか行かなければならないところはある?」そう尋ねたとき、扉が閉まった。
二人の視線が絡み合う。
「今夜はない」
エストレリャはカルロの目に溺れてしまいそうだった。カルロに溺れてしまいそうだった。「それなら、いっしょにいて」
カルロはいっしょにいてくれた。
何カ月もだれとも付き合っていなかったので、ゆっくりと服を脱がされるあいだ、エストレリャは息を詰めていた。
赤いシルクのドレスについた小さなホックがはずされ、真紅の生地が引きおろされた。黒いレースのブラジャーがあらわになる。そのままドレスはヒップを滑りおり、足元に落ちた。
カルロの口が両手のあとをたどった。なめらかな肩から、胸のふくらみ、腰の曲線へと。
エストレリャはあまりに多くを感じ、あまりに強い欲望を覚えていた。だからこそ、カルロに身をまかせて自制心を解き放ち、この一瞬を楽しむのは、ぞくぞくするほどの快感だった。
そして、カルロはこの一瞬を最高のものにするすべを知っていた。耳たぶの下に触れた唇が、胸へ伝いおりる。肌の上で舌が小さな円をいくつも描き、炎を燃えたたせた。唇で胸の先端をとらえられて、エストレリャははっと息をのんだ。熱い口が押しつけられると同時に、責め苦と喜びが同時に襲いかかってきた。
彼とこうしているのは、官能的で刺激的だ。求めていたものが、すべて現実になった。全身がだんだんとほてり、エストレリャの想像をかきたてた。そして、彼女はもっとほしくなった。
カルロが頭を上げた。暗がりで輝く目が、じっと彼女を見つめた。息遣いは荒く、銀色の目は青みを帯びている。彼はわたしがほしいのだ。わたしが与えられるすべてがほしいのだ。
エストレリャは身を乗りだして、カルロの胸に自分の胸をこすりつけた。それから、シャツのボタンをひとつずつゆっくりとはずした。
カルロはそのようすを見守っていた。好奇心に満ちた鋭い視線を感じながら、エストレリャはシャツを彼の肩から滑り落とした。
うっすらと焼けた胸と筋肉質の平らな腹部があらわになった。固い腹部に両手を置き、筋肉を舌でそっとなぞる。肌はとても温かく、いい香りがして、サテンのようになめらかだった。これほどすばらしくセクシーな男性が、今夜はわたしだけのものになるのだ。
エストレリャが目を上げると、視線と視線が絡み合った。何も言わずに彼のベルトを引きぬき、黒いパンツのファスナーを下ろす。
言葉を使い果たしたかのように、二人とも黙っていた。沈黙が興奮と情熱を高める。
エストレリャはあまりに彼を意識していたため、まるで鼓動が聞こえ、息遣いまで伝わってくるような気がした。
カルロと視線を合わせたままで、下着の上からそっと彼をてのひらに包む。そこは、すでに硬く張りつめていた。彼女は白い生地の下に手を滑り込ませ、全体をなでた。
カルロの喉の奥からうめき声がもれた。もう一度なでると、今度は緊張した腹部が収縮し、贅肉のない腰が揺れ動くのがわかった。エストレリャは生まれて初めて、手と口で男性を愛したくなった。彼を感じて、味わいたい。彼を完全に自分のものにしたい。
しかし、そうはさせてもらえなかった。ひざまずこうとしたとき、彼女はカルロの手で立たされて、ベッドへ運ばれた。
二人のあいだには、何か激しいものが息づいていた。知性や言葉では明らかにできないものが。
カルロが頭をさげてキスをした。唇と舌を駆使したその本物のキスをされたとき、自分は今まで愛を交わしたことなどなかったのだとエストレリャは気づいた。セックスで喜びを得たことはあるが、それは愛ではなかった。この無上の幸せに、少しでも近づくものではなかった。
そう、こんなふうにだれかに近づくことは、無上の幸せだ。それは、とてもいい気分だった。自分にとってたいせつなものや人生の意義を見いだし、愛によって力を得たように感じるのは、すばらしい気分だった。
カルロがエストレリャの腿のあいだで体の位置をずらし、なめらかなひと突きで、なかへ入ってきた。彼女はなすすべもなく彼を締めつけた。息が喉に詰まり、熱が出たように肌がほてる。ほんのわずかな刺激にも、体が敏感に反応した。
二人の愛の行為は、ゆっくりとしていて濃密だった。それは強制や競争、勝つことや手に入れることとは無縁だった。ただ触れ合い、感じるためのものだった。二人きりで。
緊張がよみがえって快楽が募ってくると、感覚は鋭く強くなった。エストレリャはカルロの肩に腕をまわし、温かく汗ばんだ肌に顔を埋めて、彼にすべてを捧げた。体だけでなく、心も。
だれかに対してこんな気持ちになるとは、思ったこともなかった。それでも、これが愛なのだという確信はある。生まれてからずっと、ばらばらのかけらのような気持ちで過ごしてきた。でも今やっと、カルロがわたしという人間を、完璧にまとめあげてくれたのだ。
翌朝早く、エストレリャはカルロの愛撫で目覚め、二人はふたたび愛し合った。
互いに燃え尽きたあと、エストレリャはベッドに頬杖をついて、カルロを見おろした。
「どんな暮らしをしているか話してくれないのね」急に深刻な気持ちになって言う。「家族のことも、昔の恋人のことも」
「うちは大家族なんだ。弟が三人。みんなイタリアで働いている。それに、親戚がおおぜい」カルロは肩をすくめた。「そして、きみに会うまで、だれかを愛したことはなかった。付き合った女性はいるけど、そこに愛はなかった」
おかしなことに、エストレリャの脈拍は二倍の速さになった。「わたしも同じ気持ちよ」
カルロは手を伸ばして、エストレリャの頬を包んだ。彼女の顔の形や、緑がかったはしばみ色の知性的な目が好きだった。ぼくが女性に求めるすべてを、エストレリャは持っている。いや、それ以上のものを。「今、いちばんの願いはなんだい?」
「タミール・ナドゥにいるすばらしい女の子たちを、力のかぎり救うこと」
自分に関係したことでないのにがっかりしながら、カルロは首を伸ばして、エストレリャの唇にキスしてささやいた。「その次は?」
「『ワン・ハート』を世界じゅうに広めること。孤児たちのことを、みんなに知ってもらいたいの」
カルロはまたキスした。「その願いはかなうよ」
昼前に、二人はドライブに出かけた。人でこみ合うにぎやかなカンヌをあとにして、高い山々へ続く道を進んでいくと、コート・ダジュール一帯のすばらしい景色が望める。
カルロは丘の上にあるムージャンという古い村に入って、車を止めた。二人は野生の花が咲き乱れる草地を横切り、崩れかけた石の壁に向かって歩いていった。
壁に座ると、エストレリャがカルロに寄りかかった。「きれいなところね。とても平和だわ」
カルロは彼女を見おろした。黒みがかった長い髪が片方の肩にかかっているようすを眺めながら、胸が熱く締めつけられるのを感じた。こんな気持ちになったのは初めてだ。これからも、ほかのだれかに、同じ気持ちを抱くことはないだろう。
エストレリャの顔を自分のほうに向かせて、視線を合わせる。ああ、ぼくは彼女を愛している。彼女なしの人生など、考えられない。
カルロはエストレリャの顔を両手で包み、キスをした。「ぼくと結婚してくれ」
8
「ぼくと結婚してくれ」カルロがせがむように繰り返した。
今まで、エストレリャが聞いたどんな言葉よりも甘い言葉だった。わたしの目標や夢、情熱の対象を知りながら、それでも求めてくれるなんて。彼の思いは驚くべきものだった。彼女は目頭が熱くなり、胸がいっぱいになった。
「できないわ」
向かい合ったエストレリャの腕を、カルロはしっかりつかんだ。
「なぜ、できない?」
「ひどい奥さんになるもの」
「そんなことはない!」
エストレリャは立ちあがって、カルロの唇にそっとキスした。「あるのよ。とくに、ガベリーニの男性にとっては。ガベリーニ家はお金持ちで権力のある、とても有名な家柄でしょう。アルゼンチンのガルバン家みたいなものよ。わたしはそういう家がいやなの。もう二度と、そういう家では暮らせないの」
「いとしい人、そんなことを言わないでくれ」
「もう、やめて」
目が燃えるように熱く、エストレリャは涙をこらえるのが精いっぱいだった。
「お願い、言い争うのはやめましょう。ますます話がこじれるだけよ。わたしたちはそれぞれ人生において、異なる目標を掲げているわ、カルロ。お互いに目指す方向が違うのよ」
二人を乗せた車は、カンヌへ向かって走った。帰りの車中は、耐えられないほど緊張した空気に包まれていた。
〈カールトン・ホテル〉の前で車を止めると、カルロはエストレリャのほうを見て、険しい顔で言った。「どうしてぼくたちがうまくいかないと思うのかわからない」
「こんな関係が長続きするはずはないもの」エストレリャの目は砂が入ったようにごろごろしていた。「あと一週間もしないうちに、カンヌの町は元どおりになる。ポスターははがされ、赤いカーペットは巻かれて、人々はいなくなる。わたしたちも同じよ。今はこの町の魔法にかかっているけど、これは現実の世界じゃないわ。少なくとも、わたしにとっては違う。わたしの生きる世界はタミール・ナドゥなの」
カルロの顔が青くなり、目のなかに恐怖が浮かんだ。
「子どもたちを救うために、きみがインドへ行く必要はないんだ」ぶっきらぼうな口調だった。「ここでだって、基金を募ることはできる。危険に身をさらさなくたって、孤児たちのことを世の中に知ってもらえるはずだ」
エストレリャはカルロがアリーのことを言っているのだとわかった。
「向こうへ行かなければ、子どもたちにお金が届くかどうかわからないわ。あの子たちがちゃんと世話をしてもらえるかどうか確かめなければならないの。万事うまくいってほしいと、願うだけではだめなのよ。絶対にうまくいくようにしなければならないの」
カルロの口元がこわばり、銀色の目が冷たくなった。
「ぼくたちがうまくいくかどうか、試すチャンスもくれないんだな」
エストレリャの目から涙がひと粒こぼれた。彼女はあわててそれをぬぐった。「無理なのよ、カルロ。でも、あなたのことは本当に愛している。これからもずっと愛しつづけるわ」
「これで、さよならなのかい?」
さよならという言葉が、エストレリャは大嫌いだった。その言葉がこんなふうに使われることも。カルロの言い方だと、二人の別れが簡単なことのように聞こえる。簡単ではないのに。まるで地獄にいるような気分だ。それでも、少女たちを見捨てることはできない。約束したのだから。
「さよならするわけじゃないわ」胸がいっぱいになって声がかすれた。「オ・ルヴォワールはどう?また会う日まで」
「いやだね。そんな言葉は気に入らない。ぼくは言わないよ」
「それなら、言わなくていいわ」
エストレリャはカルロの唇に唇を押しつけて目を閉じ、自分に言い聞かせた。こんなふうに愛されたときの気持ちを覚えておこう。彼の強さや温かさ、とてつもない心の広さを覚えておこう。
涙をこらえて顔をそらし、カルロの耳にささやく。「あなたのことは忘れないわ。あなたがわたしやタミール・ナドゥの子どもたちのためにしてくれたことは忘れない」
カルロが答えられずにいるうちに、エストレリャは車から抜けだし、涙をこらえてホテルに駆け込んだ。
その夜遅く、ホテルの部屋のドアの下に、封筒が二通差し入れられた。エストレリャはそれをベッドへ持っていった。
ひとつめの封筒は濃いクリーム色で、なかからやはりクリーム色をした、厚手の招待状が出てきた。
インテグロ投資銀行主催、映画『ワン・ハート』のプレミアショーに、貴殿をご招待申しあげます。明晩七時、〈リヴィエラ・ホテル〉までぜひお越しください。
カルロが約束してくれた特別上映会だ。
エストレリャは震える手で、ふたつめの封筒を開けた。そこには、ニューデリーまでのファーストクラスの航空券が入っていた。片道だけの航空券が。それを見て、目に新たな涙があふれた。
翌日の夜、エストレリャはまるで闘いの準備をするように細心の注意を払い、上映会のためにドレスを着て、髪を整えて、化粧をした。ある意味で、それは闘いの準備だった。今夜遅く、カルロのもとを去る前に、もう一度だけ彼と顔を合わせる心がまえをしているのだから。
エストレリャはバスルームの鏡に映る青白い顔を見つめた。
今夜は地獄の苦しみを味わうことになるだろう。カルロといっしょにいながら、本当の意味でその時間を共有できないことは、想像できるかぎりもっとも残酷な罰だ。
ドレスのストラップに手を伸ばして、位置を直す。ドレスの生地は肌色のサテンで、きらきら光る透明なスパンコールをあしらった小さなすみれの花々が、その上を覆っていた。とてつもなく高価で、ハリウッドで好まれる挑発的なデザインだった。今夜もう一度だけ、魅惑的なモデルの役を演じなければならない。カメラマンや記者たちの前で輝いてみせて、『ワン・ハート』が間違いなく最大限の注目を集めるようにしなければならない。
カルロが運転手つきのリムジンをよこしてくれたので、エストレリャはそれに乗って〈リヴィエラ・ホテル〉へ向かった。途中、輝くスポットライトが、夜空に何本もの白い光の筋をつけているのが見えた。
リムジンが砂浜で止まって初めて、そのスポットライトがプレミアショーのためにつけられたもので、その光のもとにたくさんの人々が引き寄せられているのがわかった。
エストレリャは畏敬の念に打たれた。これはみんな、カルロが考えてくれたことだ。赤いカーペットの上を進むうちに、いくつものフラッシュが目の前で閃いた。大きな会場で開かれるプレミアショーに負けないほど、おおぜいの記者たちが集まっていた。
たった三日で、カルロはどうやってこれほどの準備をすべて整えたのだろう?わたしのために、上映会場や観客や記者たち、赤いカーペットまでそろえてくれたのだ。
エストレリャはもう少しで落ち着きを失いそうになった。カルロのしてくれたことすべてがとてもありがたくて、その援助に対する感謝で胸がいっぱいだった。今までカルロのような男性に出会ったことはない。そして、これからも出会うことがあるとは思えない。
砂の上に張られた白いテントのパビリオンに入ると、そのなかでカルロが待っていた。上映会は盛装で参加することになっていたので、今夜もまたタキシードを着ている。
その姿を見たとき、エストレリャの胸は高鳴った。カルロはとても大きく堂々としている。わたしの夢を守るために、力を尽くしてくれたのだ。
「とってもすてきよ」エストレリャはカルロのタキシードの袖に手を置いて、頬にキスしようと伸びあがった。
そのとき、彼がこちらに顔を向けたので、キスは唇で受けとめられた。「愛している」
エストレリャの目が熱くなった。胸の痛みはまるで引き潮のようだ。そのうずきに引っぱられ、のみ込まれそうになっているのに、屈することは許されない。インドの少女たちのことが頭に浮かんだとたん、自分にはやらなければならない仕事があるのを思いだした。
「わたしも愛しているわ」エストレリャはそうささやいてカルロから離れ、各国からやってきた映画バイヤーの輪のなかへ入っていった。
しばらくすると、大きな白いテントが巨大な映画のスクリーンになり、きらびやかなドレスやタキシードに身を包んだ招待客たちは、砂浜一面に用意された椅子やブランケットに腰を下ろした。テントのなかを照らしていた明かりが落とされ、映写機のスイッチが入れられる。そして、二巻あるフィルムのうちの一巻めの上映が始まった。
上映が終わるころには、『ワン・ハート』は数々の放送局や、独立配給会社や、アメリカの大手ケーブルテレビ局に買われていた。プレミアショーに参加した人たちのあいだには、この映画はアカデミー賞の候補作品になるだとか、翌年のサンダンス映画祭で上映されるのではないかといったうわさが、飛び交っていた。
その夜は大成功だった。しかし、何事もそうであるように、結局はパーティーも終わるときがきた。招待客たちはいなくなり、テントはたたまれて、エストレリャはホテルへ帰った。
そこで旅行用の服に着がえると、荷物をまとめて、宿泊料を支払った。
ニース空港に着いた彼女は搭乗手続きをすませ、セキュリティチェックを通りぬけた。そして、搭乗ゲートで待っているとき、見覚えのある黒みがかった頭に目がとまった。頭の持ち主は新聞をのぞき込んでいる。
エストレリャは口をあんぐりと開けた。カルロがなぜ空港にいるのだろう?
「ここで何をしているの?」彼に向かって尋ねたとき、もうすぐ搭乗が始まるというアナウンスが流れた。
カルロは新聞から目を上げて、驚いたふりをした。「どうしたんだ、エストレリャ?きみこそ、ここで何をしている?」
「まだわたしの質問に答えていないわ。あなたはここで何をしているの?どこへ行くつもり?」
彼が立ちあがった。「飛行機に乗るんだ。そして、インドへ行く」
「そんなはずないわ。インドへはわたしが行くのよ」
カルロは口笛を吹いた。「運命だな」
「いいえ、運命じゃない。ただの間違いだわ」
「間違いじゃない」
彼は搭乗券を差しだした。そこに印字された座席番号は、エストレリャの席の隣だった。
「ここにチケットがある。席も取ってある。ぼくはインドへ行く」
「でも、なぜ?」
「きみが行くからさ。そばにいたいんだ。きみに目を光らせている人間が必要だろう」
彼がこんなことを言うのは、わたしを信用していないからではない。心配してくれているのだ。愛してくれているのだ。
前にも愛の告白は聞いていたが、このとき初めて、エストレリャはカルロの愛を体と心のすべてで感じた。これからは彼がいっしょにいて支えてくれる。長い年月、たったひとりでがんばってきたあとだけに、彼女は天にものぼる思いだった。
それでも、カルロが自分といっしょにインドへ行くという事実に対する驚きは大きかった。彼が何を手放し、何を犠牲にしようとしているのかをわかっていたからだ。「でも、銀行は?家族の方たちはどうするの?」
「気にしなくていい。ぼくがこうするのは、きみのためでもあるけれど、自分のためでもあるんだ。ぼくにあの子たちを救うことができるなら、救ってやりたい」
エストレリャの目に涙があふれた。「これから行くところに、高級ホテルはないのよ」
カルロは手を伸ばして彼女を抱き寄せ、腰に両腕をまわした。「わかっているよ、カーラ。ぼくは寝袋や、蚊帳や、水筒の必要な生活でもだいじょうぶだ」
「それじゃあ、向こうに虫がいることは知っているのね」
「ああ。虫はたくさんいるだろうな」カルロは少し唇をゆがめて笑った。「だけど、これからの一年をきみと過ごせるなら、ばったの大群にだって耐えてみせるさ」
エストレリャの笑みがためらいがちになった。「一年だけ?」
「それは、きみが結婚してくれるかどうかによるな」
「結婚するわ!」
エストレリャは両腕をカルロの首に巻きつけ、背伸びして彼の唇にキスした。
「カルロ・ガベリーニ、わたしがしたいことを教えてあげる。あなたと結婚して、あなたを愛して、死ぬまであなたと過ごしたい」
カルロが顔をほころばせて、エストレリャの唇を唇でそっとたどった。「今のを書類にしてもらえるかい?」
エストレリャは声をあげて笑った。何年かぶりで心が軽くなっていた。
「必要ないわ。そんな書類を使う日はこないもの。わたしたちがいっしょになるのは、運命だったんだから」